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寝る前のメモ。


昨年の8月に、この川の側を歩いた頃は、まさかそんな話になるとは想像もしていなかったし、こんなことになるなら、あの時もっと注意深く観察しておけばよかったなぁ・・と少々悔やんでいる。でも、だからこそ、次の滞在が楽しみになるわけだし、そういう意味では、これでよかったのかもしれない。

現在読み進めている『エコロジカル・デモクラシー』のようなことに興味をもったのは、いまに始まったことではない。大学の頃も、都市計画の授業では「クラインガルテン」を調べていたし、あらゆる・・(多少含みはあります)生物とともに生きてきたバックグラウンドがあるので、単に自分の生活と自然環境が密接だから、というとてもシンプルなことだと思う。

それを学術的にも紐解いてみたいと思ったのは、決して自分自身のことを棚に上げる訳ではないけれど、みんなが「ここにはなんもない」という地元について、昔の記憶を辿っても「ここを出たい」と思うことがなかった、という点にあると思っていて。都市部の暮らしに憧れることもなければ、アンチ都会でもないし、自分にとってバランスの良い場所がたまたま地元だっただけなんだと思う。それが、ここ数年でお店や知り合いが増え、さらに居心地が良くなったものだから、出る必要がなくなってしまったというのが本音かな。

(それでも、長い人生のあいだに、一度はどこか別の場所で住んでみたい気持ちはあるので、冒頭の「オランダの河川」のようなテーマから次に住む場所(リサーチ対象)を決めるのだと思う。)

比較することができないので、ほかの田舎がどうなのかはわからないのだけど、インターネットがあれば大体のものにはアクセスできるし、京都市内にも近いし、決してここにも刺激がないわけではないので、特になにかに対して劣等感をもつこともなかった。

(もちろん、わたしの場合は土地に関することだけではなく、「バスケットボール」という異なる文脈があったので、小さい頃から刺激も多かったし(コートには5人しか立てないので競争がベースにある、毎週のように遠征に出ていた)、何よりも学校の勉強以外に夢中になれる対象があったということも、関連はあると思うけれど。)


幸いにも、ずっとそんな風に生きてこれたものだから、自分が体験してきた要素を分解してみたいという好奇心が芽生えてきて。

進学・就職とともにまちを出る・残るという二項対立だとすれば、まちに残る選択をした「検体A」として、なにがキーファクターとなったのかを自分自身でも知りたくて。のこのこしているうちに世の中は一周しているようで、ひと通り都会的なものを学び・遊びつくした方々も「自然や歴史との共生」に興味をもつようになったと思うので、時代について行けなかったわたしに情けの声がかかっているのかもしれないな。

少々ひねくれているかもしれないけれど、最近は相手によってそんなことも考え始めています。(それにしても、今朝のミーティングは久々に心が踊るものでした。次のテーマが見えたような感じすらあった。)

そのあたりの解像度をあげていくためにも『エコロジカル・デモクラシー』を早く読み進めなければ。その次の本は「ランドスケープデザイン」に関するものがいいかな。「ランドスケープアーキテクト」を名乗ったとされるオルムステッドという方がジャーナリストだったという背景にとても興味がある。

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