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寝る前のメモ。


浮き足立たないように、自転車に乗って「いつも」を探しに出かけてみた。今のわたしよりも、出てくることばのほうがきっと素直だから。

現在、「日常」をテーマにフォトブックの作成を進めている。もちろん、わたしの日常ではない。けれど、だれかが大切にしている時間を受け取っていくうちに、ふと、自分自身の日々も見直したくなってきて。

わたしはどのくらい、日々のことを大切にできているのだろうか。

そんな風に考えていたときに、ちょうど『小さいままでいる自由』と題された、中村佳太さんの寄稿記事がタイムラインに流れてきて。


以前、岡崎の蔦屋で開催されていたイベント『【トークイベント】STANDART~京都が未来である理由、ポスト資本主義への道標~」に参加させていただいたときも感じていたのだけれど、わたしがどれだけ「足るを知る」という状態を目指していても、良くも悪くもこれがファーストキャリアである、という状況からは逃れらないように思う。

あまりいい表現が見つからないのだけれど、わたしがどれだけ頑張っても “痩せ我慢” のようにしか見えないのではないかと感じていて。なにか極端に突出した経験をしたときに、はじめて「足るを知る」という状況が生まれるのだとすれば、わたしまだまだ “足る” を知らない・・のかもしれない。いや、知らない。



その経験がなんなのか、今のわたしにはわからない。東京で働くことなのか、有名な人と仕事をすることなのか、年収1000万円まで稼ぐことなのか、地元で有名になることなのか。

書きながらどれも違うな、と思ったのだけれど、振り子の幅がぐんっと大きくなる瞬間を待っていることだけは確かで。振れ幅が大きいほど、中心にあるもの・軸になるものが明確に浮き彫りになると思うから。

いまは両手を広げたサイズぐらいの幅で振れているから、なんとなくどれも大切で、大切にしたいことの周辺をずっと漂っているような感覚から抜け出せずにいる。抜け出したい、と書いてしまうと語弊があるかもしれないけれど、このままだと、大切にしたいことだけがただただ増えていきそうで。



書きながら気がついたのだけど、もしかしたら、だからわたしは、半年に一度旅に出るのかもしれないな。現実が集まる場所から物理的に離れることで、自らが振り子になる。自分自身を遠ざけて、軸を確かめる。

(ただ、このままでいることで、なにかの「芸」が身につくわけではないことだけはわかっていることなので、どれかひとつを選べないなりにも・・という1年になるのだろうな。)



ぼちぼち話を戻していくと、日々を大切にしたいと願いながらも、できていないことがたくさんあって、自分のことなのにときどき嫌になってしまう。読みたい本を読めていないことや、行きたい場所へ行けていないことも、ちょっとしたことなのだけど、ちょっとしたことが積み重なっている実感はある。

だから、知り合いのお店に足を運んだり、作家さんからものを買ったり(もちろんそれがほしいからだけど)、最低限大切にしたいことだけ、大切にする生活をいまは送ろうと思う。家族と一緒にいる時間も、ね。


仕事の割合、時間の使い方、いまのステータスならガムシャラにやることは苦になはならない。ただ、この生活はあと1年程度を目安にしようと思う。

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