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運動神経が悪いとスポーツ観戦してはダメなのか 運動神経が悪いということ Vol.9

「やってるの?」フットボールをはじめ、スポーツ観戦が好きなことを他者に話したとき、わりと頻繁に出くわす反応の一例だ。音楽のライブに行く人が「バンドしてるの?」とはきっと聞かれないし、映画好きに「劇団の人?」と聞く人もたぶんいないだろう。スポーツなんて「観るものに非ず」、そんな日本人の固定観念を思い知る瞬間だ。この国でさかんなのは、運動が得意な人の進学や就職、あるいは意識が高い人の健康や美容の手段としてのスポーツであり、私のような運動神経の悪い怠け者は蚊帳の外なのかもしれない。できない者は観るな、やらない者は関わるな。能力や性質によって人びとが分断されるのだとしたら、スポーツという概念の根源的な意味とは乖離しているのではないか。属する人の価値観や行動様式をも含んだ「体育会」という言葉に象徴されるように、わが国のスポーツは、本来のそれとは似て非なる形で発展してきたようだ。

そのせいだろうか。オリンピックやワールドカップ、大規模なスポーツイベントのたび、私たちの巷に渦巻く声には、冷たいか、軽いか、極論めいたものが入り混じる。コロナ禍で開催されたオリンピックとパラリンピックにおいては、いつにも増してそんな「ノイズ」が喧しい。「愛の反対は無関心」とはマザー・テレサの名言だが、インテリ層が開催反対で論陣を組んだ様子には、根底にある無関心が透けて見えるようだった。オリンピック閉幕後、「もっとも感動した競技」という類のアンケートでは、いずれも野球が上位に入った。正式開催では初の金メダル、悲願達成の喜びに水を差すようで心苦しいが、敗れても優勝の可能性がある歪なトーナメント、メジャーリーガー不在のアメリカとの決勝戦を見過ごし、ともかく勝てば「感動した」となる思考回路には、浅薄な印象が拭えない。冷淡な批判や軽々しい感動の連鎖を通して、わが国におけるスポーツへの無理解を改めて実感する思いがした。前回の東京オリンピックから57年、私たちがいかにスポーツを「観てこなかったか」、その結論を見せつけられたようでもあった。

世の中、立派な先生方が説く理想を突き詰めれば、勉学や労働のような「必要火急」な営みばかりになるだろうし、矛盾も欺瞞も排した「清廉潔白」しか許されなくなったとしたら、多くの物事が失われるだろう。過度の真面目も軽挙妄動も、行き着く果ては絶望だ。だから私はこのたびのオリンピックから、ジャマイカのリレーメンバーがお辞儀をして入場した姿、PK戦の果てに惜しくも敗れたニュージーランドのイレブンがロッカールームに残した日本へのエールを記憶に刻み、希望だと受け止めたい。

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