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日本がドイツに連勝した朝 Footballがライフワーク Vol.33

3年前の6月は、スポーツ専門チャンネルのJ SPORTSでも映画が放送されていた。新型コロナウイルス感染症のパンデミックの真っ只中、フットボールもスポーツ界のご多分に漏れず世界中で活動休止を強いられた。予期せず訪れた空白の時間に観たのが、ドイツにおけるフットボール伝来の物語「コッホ先生と僕らの革命」だった。

時は19世紀後半、まだドイツでは反英感情が根強かったらしく、イギリス留学経験のある教師コンラート・コッホは英語に拒否反応を示す生徒たちを懐柔しようとフットボールを教え、フェアプレーの精神なども指導するうち信頼関係を築いていく。保守的な大人たちからは懐疑的に見られていたところ、コッホの友人が引き連れたイギリスのチームと生徒たちがフットボールで交流し、立ち会った政府の役人にも教育上の有用性を認められたことが普及の転機だったという。後ほど調べてみたところ、コッホがこの学校に赴任したのは1874年のことだった。後に世界有数の強豪となる同国が西ドイツ時代に初めてワールドカップを制したのが80年後の1954年、100年後の1974年にはフランツ・ベッケンバウアーやゲルト・ミュラーなど伝説的なメンバーを擁して2度目の優勝を果たしているのだから、その進歩の早さに驚かされる。そういえば、当時のメルケル首相のリーダーシップのもと、パンデミックから立ち直るのも早かった。

反感を抱いてきたイギリス発祥の「フスバル」をお家芸とし、やがてワールドカップを4度も掲げたドイツは、後進国を導く役割を担ってきた。わが国も、いわば「弟子の一人」だろう。第一次世界大戦の後、広島県にあったドイツ軍捕虜収容所のチームから指導を受けた人たちが西日本各地への普及に貢献し、 いまなお"金字塔"として語り継がれる1968年メキシコ五輪の銅メダルも、礎となったのはドイツ人指導者デットマール・クラマーの招聘だった。それだけに、昨年のカタールワールドカップの初陣、厳しい予想と前半のビハインドを後半の数分間で覆し、「師匠」ドイツから掴み取った日本の金星は、名勝負として記憶に刻まれた。

ゲーム序盤のカウンター発動、ニアサイドへ叩き込むシュート。今朝の再戦、先制点の場面では10か月前の記憶が呼び覚まされた。前回はオフサイドに終わったカウンターが見事に決まり、伊東純也のシュートは浅野拓磨のようにマルク・アンドレ・テア・シュテーゲンが構えるゴールの隅を射抜いた。およそ8分後、左サイドからつながれ前回は欠場していたレロイ・ザネが逆サイドで余って同点とされるが、振り出しに戻ったのはものの3分間だった。崩しは、再び右サイドから。先発に定着した菅原由勢がクロスを送り、伊東が触れたボールにうまく合わせたのは上田綺世。起点となったのは、1点目に続いて冨安健洋のサイドチェンジだった。

ヴォルフスブルクの地でリードして折り返した後半、3つめの記憶がオーバーラップした。鎌田大地に代えた谷口彰悟の投入による3バックへの移行だ。ワールドカップでのそれは逆転劇へと繋がる強気な姿勢の表れだったが、スコア通り優勢の今日は逃げ切るための守備固めかに思えた。ところが、前半の両得点に絡んだ伊東に続き、左サイドから幾度も仕掛けた三笘薫も下がった終盤になって、再びの衝撃が走る。すでに3得点を挙げマン・オブ・ザ・マッチは4試合連続、ラ・リーガの新シーズンで躍動する久保建英が途中出場でも輝いた。ボールゲインから浅野へ、2人のディフェンスの間を通すクロスから田中碧へ。後半アディショナルタイムのダメ押しゴールが、2点とも久保によってもたらされた。

"師匠超え"の達成を、素直に喜べばいいのだろうか。ショックにも近い興奮に包まれ、二度寝するはずだった目は冴えたままだ。日本が、ドイツに連勝した。対戦を「逆オファー」するほど雪辱に燃えていたはずの大国を、いよいよ内容でも圧倒してみせた。アウェーで、現状のベストメンバーを相手に大量4ゴールで返り討ち。やってくれたという喜びに、やってしまったとでもいうような物寂しさが入り混じる。こんな感慨は、初めてかもしれない。


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