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あれから20年(上) 運動神経が悪いということ Vol.35

木の葉が色付いて、ショッピングモールにはクリスマスツリーが設営される季節になった。11月の声を聞くと、20年前に負った傷が疼き始める。「手術が必要だそうです」気落ちした父の留守電メッセージを聞いたのは、2003年の11月19日。健康診断の結果、甲状腺の異常が認められたのだった。入院は、12月22日。翌23日の見舞いが、よもや最期の時間になろうとは。人間は、ひと月もあれば死へ至るまでに心を病んでしまうことを思い知った。

毎朝の通勤電車は、できるだけ山側のシートに座るようにしてきた。六甲山系と海の間に広がる神戸の市街地では、南を海側、北を山側と呼ぶ。元町にある大丸神戸店にもそう表示されているが、電車がその元町駅の少し手前を通るとき、山側の窓から父が入院していた病院が見える。手術の予定日は、12月24日だった。当日、母と祈願のため神社へ回り道してから病室を訪れると、父はいなかった。はじめはトイレか検診かと思ったが、ロッカーの服も靴も無くなっていて、そのまま戻ることはなかった。海側のシートしか空いていない日は、いまも神戸駅を過ぎたあたりで窓から目を逸らす。

卒業検定以来一度も車を運転できぬまま、かれこれ19年になろうとしている。病院を抜け出した父が向かったのは、当時の自宅マンションの駐車場だった。母が持たせた一万円で、タクシーを拾ったらしい。いま思えばその前日、「現金が欲しい」と手を合わせながら切実に頼み込んでいた。「弟はあきらめたから、車に乗せてな」10歳だった私の無邪気な望みに応え、50歳を前に免許を取得して10年あまり。ひとり死出のドライブに発った父は、湖に架かる橋梁から身を投げた。死亡時刻は推定でしかなく、世に言うクリスマスイブが命日となった。最初で最後の愛車になった白いカローラは、主亡きあとも数年間所有していたのに、どうしても、父が死の間際まで握りしめていたハンドルを動かす勇気を持てずにいるうち、タイヤが古びて手放してしまった。

今年も、11月を迎えた。日ごとに秋めいて、年の瀬が迫るにつれ、父が苦しんで旅立つまでの記憶が呼び起こされる。遠距離通勤の電車で、私は昨日も山側のシートに腰を掛けた。六甲道から住吉を走る間、海側の窓に見えるのは父が永く勤めた中学校の校舎だ。私が産まれた年に赴任して10年間、10年ぶりに復帰して私が20歳になるまで2年間、併せて12年間も縁のあった場所だが、定年退職は目前で叶わなかった。後任の先生が母と私を校長室に通してくれた際、壁にはやつれた表情でぎこちなく笑みを浮かべた父の写真が掲げられていた。「お疲れ様でした」高層ビルの対岸に屋上のソーラーパネルが見えるたび、心のなかでそう唱えている。来月で、父と別れて20年が経つ。年齢が倍になり、もうすぐ、父とともに生きた時間を別れたあとの時間が追い越してしまう。それだけの年月がこんなにも早く感じるのは、日々、同じことを考え、繰り返してきたからに違いない。


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