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私的コロナ禍の感想 運動神経が悪いということ Vol.5

「正しさが、人からいたわりを奪った」―ある主婦の言葉が、胸に響いた。昨年来、コロナ禍に関する記事は膨大に積み重なったが、新聞で読んでいまも記憶に残るのは、公園で小学生の子どもを遊ばせていたら近くの人に鋭い視線を向けられ、ほどなく休校中の学校から耳の痛い注意喚起のメールが一斉送信されたという話題。私自身もこの世間に抱いてきた怖れが、秀逸な表現で綴られていた。昨年のいまごろは一度目の緊急事態宣言下で、ひと月半ほどのあいだ、私はほとんど在宅勤務だった。ステイホームが叫ばれた期間中、大多数の市民は協力的で、われわれは意外なまでに真面目で従順だったようだ。一方、同時期の大阪大学の調査により、日本人が「感染は自業自得」と考える傾向は欧米諸国に比べ突出しているという結果が判明したらしく、表向きの真面目さや従順さの裏には、「自粛警察」に象徴される不寛容や同調圧力、母子に向いた視線のような「正しさ」が潜んでいる気がしてならない。

「100年後、人間は1日3時間も働けば生活の必要を満たすようになる」それは怠け者サラリーマンの寝言ではなく、かのジョン・メイナード・ケインズの予言であり、時は1922年だという。来年でその100年後を迎えるというのに、2020年代に突入した今日に至るまで、そんな時代が到来する兆しは無かった。ITをはじめとする文明の発達により負担や面倒は軽減されたはずだが、人間は時代が進むにつれてむしろ忙しくなり、過剰なまでにモノやサービスを供給してきた。まるで摩耗した車をひた走らせるドライバーだが、高速道路で突然の天変地異に見舞われ、前方は極度の視界不良、後方は崩落の恐れに瀕したとき、その危機を乗り切るためにはどんな運転をすればよいのだろうか。学生時代の卒業検定以来、一度としてハンドルを握ったこともない真正のペーパードライバーが例えるのも畏れ多いのだが、コロナ禍の世界が置かれた状況はこれと同じくらいの難局だと思う。最善の方法とはおそらく、前後に細心の注意を払い、いつでもブレーキが踏める用意をしつつ、少しずつアクセルを踏んで徐行運転することなのだろう。

コロナ禍は現在進行形のまま、2020年が呑み込まれるように過ぎていった。日本国内ではまたしても緊急事態宣言が発出されたが、3度目ともなると、他にもっと良い手がないものか考えてしまう。遠分の間は、一定の周期で自粛要請期間を予定しておいたほうが活動計画が立てやすいのではないか。ドイツの閉店法をモデルに法整備し、様々な業種を交代で休業させてはどうか。私に思いつくことなどその程度だが、現状ではできないこともできるように変える権限を有する方々なら、ずっと良い妙案をもっとたくさん提示してもらいたい。引き続き、感染対策と経済活動を両立していくうえで大切なのは徐行運転を心がけることだと思うが、現状は急停車と急発進を繰り返しているように見受けられる。この状況を克服する過程が、これまでの私たちの生き方に無理や無駄が無かったか、考え直す時間にならないだろうか。多くの人々が自粛を体験するなかで、競走や生産性ばかり奨励されてきた世界が見落としてきたものに光を当てることができたなら、災い転じて福となす、も夢ではないかもしれない。ケインズの予言が、はからずも的中する機運が高まるかもしれないのだ。

仕事柄、ありがたいことに夏休みと年末年始は休暇期間が長い。実を言えば、それこそがこの職業を選んだ最大の志望動機なのだが、内向的に生きてきた身は混雑が苦手で、やたらと疲れやすい。そのせいで旅行にもあまり行かず、遊ぶより休むことを優先してきた。挨拶のように休暇中の予定や成果を尋ねる同僚たちからは、何度となく首をかしげられ、その「勿体なさ」をたしなめられることさえあったが、活発に行動して非日常を体験することが全てなのだろうか、ゆったり日常を過ごすことも貴重な休暇ではないのか、という疑問がいつも内心に燻っていた。世が自粛ムードに包まれて以降、そんな遣り取りからも解放されている。在宅勤務が続いた一年前、眠たい朝には二度寝でき、朝も昼もたっぷり食べられ、通勤している時間帯のテレビも観られた。おかげで体重は増え血液の数値は悪化したものの、私の胸中にあった感想はずっと一貫していた。職場の事情で通常出勤するしかなくなった現在、「正しさ」が跋扈する世間の片隅で、その感想を文字に起こす勇気は無いけれど。


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