noteイップスに陥った記録
明日やめたってかまわない。
そんな気持ちとは裏腹に、なんだかんだ半年近く毎日続けたnoteを、わたしはやめた。
自分のなかでうっすらと危惧していたできごとが、現実になったからだ。
「noteイップス」とでもいおうか、書くのが苦しくなってしまった。
…やめたってかまわない明日がやってきた。
3日経ってまたここに戻ってきたのは、復調したからではない。
やっぱり記録を残しておこうと思ったからだ。
今日はnoteを書きはじめたときから密かに危惧していたこと、つまりわたしが筆を置くことになった原因を書いておこうと思う。
そして、今の正直な気持ちも。
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前提として、わたしがnoteを書く目的はビジネスのためでも三日坊主の克服でもなく、単なる日々の記録である。
Webという公の場を間借りして、ごく私的な日記を書いているようなものだ。
そのうえで最初の懸念材料は「継続の目的化」だった。
わたしはnoteでの私的記録をごくひっそりと始めた。
私的なのだからわざわざアピールする必要もない。
しかし、ごくひっそりと始めたのに関わらず「毎日続けていてすごいですね」と、気づいてくれる人がいて驚いた。
声をかけてくれた人たちはシンプルに「何日も続けていてすごい」と、文面以上に深い意味はなく、どちらかというと褒め言葉として発してくれたのだと思う。
わたしも素直に「ありがとう」と受け取れればよいのだが、正直複雑な気持ちだった。
自分の性格上、そう言ってもらえるほど「見られている。続けなければ」と意識してしまいやすいから。
ひっそりと始めたのも、毎日書いていることに気づかれないための自分なりの策だった。
でも、ありがたいことに定期的に読んでくださる人がすこしずつ増えて。
その反面わたしは「継続せねば」との義務感を何度も何度も振り払ってきたけれど、このところは目的が記録から継続へすり替わっていたように思う。
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目的が逆転してただでさえ不調ななかで、鳴りを潜めていたふたつめの懸念材料が追い打ちをかけてきた。
「気楽さの欠落」である。
noteには嘘偽りのない自分の考えをさらけ出してきたが、わたしはどうにも厨二病よろしく変にひねくれた考えの持ち主がゆえに「これを書いたらあの人が不快な思いをするのではないか」と、人の顔が浮かぶようになってきた。
もちろん「あの人」を攻撃したいとはまったく思っていない。
書きはじめたときからずっと、特定の人物の誹謗中傷や悪口にはならないように(これでも)表現には気をつけてきたつもりだ。
表現の気遣いはインターネットで文章を公開するマナーだと、わたしは捉えている。
しかし最近は、考えすぎて結局なにをどう表現すればよいのか、わからなくなってしまった。
書きたいことを書きたい形で書けず、息苦しくて仕方がなかった。
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ライターなのだから、本音と表現のジレンマを、言葉を操ってうまいこと表現するのが実力だともいえる。
書き手として成長の踊り場にいるもどかしさも重なった。
このごろ自分の文章が成長していないことなど、自分でも気づいている。
それでも毎日書かねばと、まるで身をすり減らして機を織る鶴のようにPCに向かっていた。
心のどこかから血が滲む気がした。
「明日やめてもかまわない」
だったら本当にやめてみよう、と。
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半年近く毎日続けてきたものをストップしたらやっぱり落ち着かないものかとの想像に反して、この3日間noteの4文字がわたしの頭をよぎることはまったくなかった。
意外とケロッとしているが、冒頭でも書いたとおり完全に復調したわけではない。
「noteイップス」の根本には、ライターとしての伸び悩みや焦りがある。
一朝一夕には解決しないだろう。
とはいえSNSをふらふらして余計に焦るなどとばかげた時間を過ごすなら、自分と向き合って、できる範囲でnoteをしたためるほうがよっぽど建設的である。
現状、わたしにとってnoteはやっぱり単なる日々の記録で、それ以上でも以下でもないのだから。
あらためて筆を執った今日のように、よくないときも書きたい。
いつやめてもかまわない気楽さで。
今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたはイップスに陥ったとき、どんなふうに回復しましたか?
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