見出し画像

見えても見えないフリをするサバイバル

ジャイアンって悪いヤツじゃないのに「ジャイアンリサイタル」は迷惑なひとりしゃべり、あるいはカラオケでマイク離さない人の代名詞になってしまっていて、ジャイアンがすこし不憫である。

不憫ではあるが、やはりジャイアンリサイタルはいただけない。
交流や対話の場で「おまえの話題は俺のもの、俺の話題も俺のもの」と言わんばかりに話題のボールをかっさらい、ちっともおもしろくない話を延々している人が苦手である。

そういう人の話はだいたい自慢か、グチのどちらかである。
自慢には不幸自慢も含まれる。

あなたの自慢もグチも、尋ねてもないのに教えてくれてありがとう。
でももうけっこうです。


もしくは「察してほしい」がにじみ出ちゃっている人も苦手である。
察してさんは逆にいつも歯切れが悪い。
「どうしよう、まずい、あばらが折れている…呼吸はあと1回しか使えない…でも絶対にあいつをやっつけないと…(つまり誰かタスケテ)」
こんなタイプの人間である。

竈門炭治郎くんは他力本願ではないけれど、察してさんは他力本願さがチラ見えしている。
「こうしたい」「こうしてほしい」が、言葉にしなくてももうオーラに出ちゃってるのよ。

自覚してそう振る舞っているなら100歩譲っても、自覚していない場合は本当にたちが悪いと思う。

わたしは大勢のなかで空気が読めないくせに、少人数になると相手が察してほしいと思っていることを察してしまいやすい。

「あなたにそこまで踏み入るつもりはありません。わたしの限られた『心配りゾーン』に土足で入ってこないでください」と思ってしまう。
…もちろん相手との関係の良し悪しや距離感、深さにもよるけどね。


自分の本音を口に出すのに苦手意識を感じる人もいるだろう。
「助けて」を声にするのは、時と場合と人によってはなかなか勇気の要ることだ。

でも、ズルいと思ってしまうのだ。わたしは。
勇気を出してSOSを言葉にして嫌な顔をされるとか、「なにあいつ」と思われてきたわたしからみると「黙っていて察してもらえると思うなよ。口を開けてただ待つだけの雛鳥かよ!」と、つい厳しい視線を送ってしまう。

口にしたくてもできない言葉はグチとなり、リサイタルへとつながっていく。

そりゃあ1対1でゲリラリサイタルされちゃったらそのときはそれなりに聞くけれど。
逆にあなたはわたしが困ったとき、察して助けてくれるのかい?

わたしの性格にも問題があるだろうが、「聞いて、察して」はわたしのような人間にとっては時に暴力的である。

だからもう冷たいと思われても仕方がないが、「察して」が見えても見えぬフリをしないとキャパオーバーになって本当に力を貸したい人に貸せる余力がなくなってしまう。
見えないフリをして、なんとかサヴァイヴしているのだ。


よく「GIVEの精神」とか、情けは人の為ならずとか、仏教でも似たような教えがあったような気がするし、たいして多くの人と日頃関わっているわけではないけれども、「すべての人に」というのは、まだちょっと難しい。

できる人ややりたい人のことは本当にすばらしいと思うし、わたしもケチケチしていないで、できればそう在りたいと思うけれど。

自分を大切にすることと、人を大切にすること。
あらためて見つめてみたい。



今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたは最近、誰のどんな話に耳を傾けましたか?

この記事が参加している募集

最近の学び

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?