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人生最後の日、わたしは何を思う。〜つらかったあの頃の自分へ〜

2022年11月26日の夜、キャンプファイヤーでの出来事。

その日、わたしは旅好きのコミュニティ「POOLO」の大型フェスイベントに参加していた。

大きな焚き火を、参加者50人で一つの輪になって囲んでいたとき、フェスの音響を担当してくれていたノブが1曲歌ってくれた。

「隣の人と手を繋いで、目を閉じて聞いてほしい。」とひと声かけて、彼は「人生最後の日」という曲を歌いはじめた。

人生最後の日、あなたは何を思う
後悔してないか 人生やり切ったか
悲しんでないか 笑ってるのか
今自分になんて声をかけるのか
いろんな事があった いろんな事があった
幸あれ「人生最後の日」

歌がはじまるとともに、不思議なことが起こる。

まぶたの裏側に、いや、目の前に、小4の頃の自分がはっきりと現れたのだ。

それは私にとって人生でいちばん絶望していた頃の自分でもあり、死にたかったあの頃の自分でもあった。

小学校にも家にも居場所がなかった私は、なぜ自分が生きているのか分からず、もがき苦しんでいた。

でも、もちろん死ぬほどの勇気もない。人生に絶望していたけれど、いつか光が見えるだろうと信じて、とりあえず生き続けることを選択した。

生きることに絶望しつつも死ぬことを諦めたあの小4の私が、今の私を見つめながら問いかけてきた。

生き続けてみて、どうだった?

目の前に現れた小4の女の子は、どこか不安げな表情をしていた。

このnoteは、今の自分から、つらかったあの頃の自分に向けて書く。

はじめに

「死」という言葉のつよさに、読者の多くは「お、おう、、、」とビビってしまうかもしれない。

おふざけ大好きで、好奇心旺盛で大学を休学して日本全国を旅している、今のえみぞうからは想像しにくい言葉遣いだ。(そうであってほしい)

でも、今日の自分がいるのは、小学生の時の「死にたくなるほど嫌いな自分」とたくさん向き合ってきたからだと確信している。

だからむしろ、つらかった幼少期の自分を誇りにも思う。生まれ変わっても自分でいたいと心から思っている。

仲良くなった友達にもなかなか話す機会のなかったこの話をnoteで公開するか、正直迷った。有料記事にして、一部の人にだけ届ける形にしようと思っていた。

でも、もしかしたら自分の経験や言葉が誰かの背中を押すかもしれない。

あの頃の自分も含めて、今の自分がいる。だから隠し事にはしたくない。

なので勇気を持って、公開する。

とはいえ緊張しているので、いいねやコメントをいただけたら励みになります。

5歳:違和感のはじまり

悲しい。
つらい。
もっとわたしの話を聞いてよ。
なんで?

そんな感情が芽生え始めたのは、5歳のときだった。

わたしは、人よりも大きなエネルギーを持ちやすく、ときに攻撃的で、自己主張の強い女の子だった。

何でもかんでも自分でやりたがるし、イヤなことはイヤだと抵抗する。とにかく手間のかかる生意気な子だった。

だんだんと3個上の兄とケンカすることも増えた。

そんな時、母は必ず兄をかばった。どんな時でも兄を可愛がった。

どんな理由でケンカしたとか、なんで怒ったとか何も聞かれることもなく、ただただ私が怒られた。

どんな時でもわたしは悪者だった。

何をしても私ばかり怒られる。自分の感情は無視される。

そんな違和感を持ちはじめたのが5歳だった。

母「あんたなんて産まなきゃよかった」

ずっとこの言葉が心の奥底に刺さっていた。

抜きたくても抜けない。深く深く刺さっていた。

とにかく手間のかかる子だった私は、何度も親を困らせた。

朝が苦手で起きられない。
時間通りに学校に行けない。
食べ物の好き嫌いがあまりにも多い。
整理整頓もぶっちゃけ苦手。
忘れ物もする。

背の低い私は、朝礼の整列ではずっと一番前だった。でもよく寝坊するから、月曜の全校朝礼では一番後ろに並んでいた。

小学校に通い始めてから「なぜかうまくいかないこと」が増えた。

私が小3の頃から父は単身赴任で家を出た。母と対立する場面が増える。

むかしは、父と喧嘩したら母がよしよししてくれて、母と喧嘩したら父がよしよししてくれいた。そのバランスが崩れて、逃げ場をさらに失った。

喧嘩したある日のこと。

たしか、朝起きれずまた遅刻しそうになった日だ。ヒートアップした母は、

「あんたなんて産まなきゃよかった」

と言い放った。

……あまりにもショックすぎて、言葉もでなかった。

「そんなことないもん!」

って抵抗できればよかったのだけど、わたしは素直に言葉を受け取ってしまった。

あ、そうなんだ、わたし生まれなきゃよかったんだ……。

それ以来、母に怒られるたびに「産まなきゃよかった」と繰り返し言われてるような気がして悲しかった。

わたしだって、生まれたくて生まれたわけじゃないのに。

このモヤモヤする行き場のない感情を、思考することで整理しようとした。

「人はなぜ生きているのだろう」「人は生まれながらにして悪であるか善であるか」「嫌われる人と好かれる人の違い」など様々なテーマを考えた。

お風呂でよくポーッとしたり、移動教室の最中にぐるぐると思考したり。不気味な小学生だった。

ときに「もし〇〇だったら」と妄想することを楽しんだ。

今にも崩れ落ちて消えてしまいそうな心を、思考することで救ったのだ。

小4:鏡に映る自分を疑ったあの日

自分の存在を認めてくれる人がどこにもいなくて、なぜ私が生まれてきたのかわからなかった。

鏡に映る自分を見て「だれ?これ」と思ったこともある。

きっと自己を受け入れられなかった当時の私は、思考と身体を分離させようとしたのだ。

いろいろなことを考えたり感じたりしている物体と、鏡に映っているまばたきをしている物体が、同じであることを疑った。

今となってはその感覚が「メタ認知能力」としてうまく使いこなせる。

ただあの日、あのトイレでの、"私らしき人"と出会ったような、あの感覚は忘れられない。

なぜ生きているのか分からない。
でも死ぬほどの勇気もない。
とりあえず生きてみる……。

2012年にくると言われた「マヤ暦の終結」による人類滅亡説を、密かに願っていた。

小学校:突然はじまる「〇〇ちゃん嫌い同盟」

小学校もなかなか馴染めなかった。

幼稚園時代、人との距離感が分からず私はいろんな子にキスしようとしていたらしい。(いや、何しとんねん笑)

それを面白がった男子に「タコチューおばけ」と呼ばれ、小学校に入ってからも噂された。(絶妙なネーミングセンス)

元タコチューことえみぞうは、小学校入学と同時に友達作りに失敗した。

しかも、食べ物の好き嫌いが多かった私は、お昼休みはいつも一人で教室に残されていた。

このツイートを見つけたとき、ヒヤッとした。

教室に一人残されて、校庭で遊ぶみんなをただ眺めていた。たまに食べ切ることができて、お昼休みが遊べることになっても、誰と何をしたらいいかわからず、排水溝沿いを散歩していた。

いや、悲しすぎる笑

しかも、女子あるあるの”仲良しメンツで全部を一緒に行動しなきゃいけない文化”がよくわからなかった。

外で遊んでたのに、誰かが部屋に入りたいと言うと、途端に「わたしも」とみんな言い始めて気づいたら中遊びに切り替わる。

うーん、私はまだ外で遊んでいたいのに。と思って、外に残った。

みんながするなら、私もする。

そんな因果関係がよくわからず自分を貫いていたら、やはり一緒に遊ぶ女友達がいなくなった。なんて不器用なのだろう。

遊びたい内容が男子と同じことが多かった私は、放課後はよく男子とサッカーしていた。ツルピカ頭の橋本くんと泥団子の作り方を日々研究したのもいい思い出だ。

小4あたりから途端に男女の区別がされ始める。女らしい遊び方と、男らしい遊び方という認識が現れる。

3月生まれで周りより成長が遅いからか「女だから」という感覚が芽生えるのが遅く、相変わらず男子とサッカーをしていた。

すると「男子に媚を売っている」と女子に囁かれた。

これまたワケがわからなかった。サッカーしたいから、していただけなのに。

落ちているものを拾ったら「良い子ちゃんぶってる」と言われる。

理不尽だと感じることがたくさん増える。

男女の意識が芽生えてから「好きな子だれ?」という会話が増え、噂話と悪口が盛んになった。

でも、わざわざ陰口叩く必要も感じなかった。嫌なら嫌って相手に伝えればいいじゃんって思ってた。(ひゃー、こわいこわい)

誰が誰のことを好きとかも興味なかったけど、どうやら好きな人がかぶると派閥が生まれるらしい。

まりんちゃんが途端にクラス中の子に「かほちゃんのこと嫌い?」と聞いて回り始めた。私は、人の好き嫌いとか特になかったので「え、別にふつーだけど?」と答えた。

後から知ったのだが「かほちゃん嫌い同盟」を結んで回っていたらしい。

いかにも小学生らしい、くだらなさだ。

たぶん私も嫌われていたから「えみぞう嫌い同盟」もあったかもしれない。まぁどうでもいいのだけど。

クラスの人気者が言ったことには、みんな、いいね!って言うのに、私が言ったことはなぜか無視されると感じることもあった。学芸会の役決めもただの人気投票だった。

多数決での決定に納得がいかなかったときは、学校の先生とよく戦っていた。(いや、落ち着けって)もちろん勝てるわけがなくて、泣いて終わるのだけども。

こうやって文章にしてみると、ほんと自己主張の強い子だったんだなとつくづく思う。末恐ろしい。周りが何をしていようと、自分が正しいと信じたことは曲げなかった。(曲げられなかったに近いが)

同調圧力の存在に気づかないまま、すくすくと育った私の魅力は、2022年からさらに輝き始めたと思う。

突然、自画自賛する文章を書き始めた自分に驚いているが、このまま書き進めてみよう。

中3:生まれ変わっても私でいたい

生まれ変わっても私でいたい。

そう思えるようになったのは、中3くらいからかな。

お兄ちゃんの真似をしたくて始めた中学受験塾。勉強が楽しくて、塾が楽しかった。今思えば、唯一の居場所となっていたのかもしれない。

無事中学受験に合格し、家から自転車で15分の女子校に入学した。

理不尽だらけだった小学校とは違って、正しいことと間違っていることを、理由とともに伝えてくれた。一瞬現れたいじめも、もちろんすぐ対処された。

女子校では「女らしくいなきゃいけない」とか「好きな人が被る」などと気にする必要がなかったので、のびのびと、おふざけに集中することができた。

それでもやはり「生まれなきゃよかった子」という言葉が頭に残っていた。

自分が大嫌いだった。

夜寝る前は、自分反省会をするタイプだった。「あれ、言わなきゃよかったな」なんて考えては凹んで、ぐるぐるモヤモヤ。眠れなかった。(だから背が伸びなかったのかな)

部活終わりは、もう一人の自己肯定感低い友達と「私の方が嫌われている」「いや、そんなことないよ私の方が嫌われている」なんて会話を延々と繰り返していた。

自分を好きになりたい
みんなから好かれたい


やはり、諦めることができず、人間観察と思考を繰り返した。

自分がされて嬉しかったことをして、されて嫌だったことはしないように気をつけた。

具体的には、

・自分から相手を好きになる。まず相手に興味を持つ。(自分のことを好きでいてくれる人には心を開きやすいと分かったから)
・いつもニコニコすることで、話しかけやすくする。(クラスのゆるキャラ的な子を、ついいじりたくなる理由がそれだったから)
・噂話は気にしない。ゼロから友達関係を始める。(クラス替えのたびに〇〇ってどんな子?と情報漏洩されるが、色眼鏡で接せられるのは居心地が悪かったから)
・自分から挨拶する。(友達として認識してもらってると気づいてもらうために)
・嫌いな人というジャンルをそもそも作らない。(一度、嫌いだと意識し始めると、苦手な部分にしか目がいかなくなってしまうから)
・影で友達を褒める。(ひとづてに褒められていたことを知ると、より嬉しいから)

など、いろいろな作戦を見つけては試した。

友達の好きだなと思うところを見つけたら、観察して盗むことで「嫌いな自分」を「好きな自分」に塗り替えていった。

ちなみに、どちらかというと、いじられキャラモードをたくさん身につけていた笑

陰口が嫌いで、嫌なことは嫌とはっきり伝えてしまうから、人と衝突することは多かった。だから、しっかり喧嘩して、しっかり悩んだ。(あの時はごめんって言いたい)

たくさん思考することで、壁にぶち当たっても乗り越えることができた。

もっと革新的なマインドセットがいろいろあった気がするのだが、また思い出したときに書こうかな。

つらい。悲しい。自分なんて。

たくさん自分を傷つけては、自分を癒した。

何度も自分と向き合って「つらさ」を乗り越えてきたからこそ、友達が悩んでいるときに伝えられる言葉をたくさん持っている。

たくさん悩んでくれてありがとう。

高校以降

過去の振り返りはここまでとしよう。

続きが気になる方はこちらのnoteを読んでほしい。

このnoteでは、小中高大それぞれの印象的な出来事と、身につけたマインドセットをまとめている。

思考の10代。感情の20代。

思考することで、嫌いだった自分を何度も「好きな自分」へと塗り替えていった。

目の前の人がどんな背景でそこにいて、どんな気持ちなのかもよく観察していた。こんなことを感じているのではないかと想像する力が身についた。

しかし思考に頼りすぎて、たまに自分の心の声を無視してしまう事がある。

大学に入ってからの私は特にそうだった。

薬学部の多すぎると課題と、練習の多いダンスサークル、ブラックバイトを両立するために追われるように日々を過ごし、自分が楽しいと思うことよりもToDoリストを優先し続けた。

忙殺されて、だんだんと自分の心の声が聞こえなくなっていた。

まれに隙間時間ができても、何をしたらいいかわからなくなっていた。暇が苦手だったわたしは、さらに予定を詰め込んで誤魔化した。

あれがしたい
これがしたい


そんなわがままを言うのが苦手だった。そもそも湧いてこなくなっていた。タスクをただこなすだけのサイボーグ化していたのだ。

でも、大学を休学してToDoリストを真っ白にしたおかげで、自分の心の声が聞こえるようになってきた。

キラキラっと、ときめく心。
モヤッと曇る心。


だんだんと見えるようになってきて、ようやく自分の人生を歩き始めた気がする。自分の意思で選択できるようになってきた。

特に、キラキラと光るものが強くなってきた気がする。この感性をこれからもっと大事にしたい。

思考に助けられた10代だったが、これからは感情を大事にする20代としたい。

2022年は自分の心の中に光るキラキラに気づけた年だった。

2023年は自分の心を曇らせるものにも素直でいたい。

12月の淡路島企画の深夜、さんちゃんと話して「本音を言えずに、相手に合わせてしまう。わがままでいられない自分」がいることに気がついた。

自分が傷いていたとしても、相手の立場や想いを尊重するあまりに自分の心の声を聞かなかったことにしてしまう癖がある。

例えば、POOLO活動も5月以降モヤモヤする感覚がずっとあった。しかし、9月になるまでモヤモヤの原因に気づく事ができなかった。思い返せば、気持ちに蓋をした瞬間は何度かあった。小さな積み重ねをしてしまっていた。

昔のパートナーに対しても、わがままを言う事ができずにモヤモヤを溜め込んで辛くなってしまった事がある。自分の心の声が聞こえていたとしても、伝えることを諦めてしまっていた。

休学中に始めたインターンの上司が思いのほか理不尽で、辞めたいなと思っていても、声にするまでに時間がかかった。私が辞めたら残された人が苦労すると思ったから。(実際は違うと気づいて、態度を変えることができた。相談乗ってくれた方々ありがとう。)

自分の心の声を無視してしまうのは、もしかしたら幼少期の「自分の声が無視される悲しさ」を癒やせていなかったからかもしれない。

兄の声ばかり母に届いたり、人気者の声だけがみんなを動かす不思議さ。

自分の声は無視されるものだから、伝えても意味がない。

伝えてまた無視されたら悲しいから言えない。そんな自分が無意識下に残っていた。

2023年は直感だけではなく違和感とも向き合っていきたい。

タスクに追われることはあっても、自分の心の声に耳を傾けることは忘れたくない。

あの頃の自分に伝えたいこと

さいごに、冒頭にも書いた「生き続けてみて、どうだった?」の問いに返事をしようと思う。

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今とても幸せだよ。
生まれてきてくれて本当にありがとう。

今どんなにつらくても、大丈夫。必ず乗り越えられる。
その経験があったからこそ、強くなれたし、友達がつらい経験をしていたときに救えるようになる。

理不尽だと感じたことに無理に従う必要はない。
自分が信じたものを大事にし続けていい。自分の意思を持ち続けていい。
大学生になって、みんなそれぞれの人生を歩むようになってから、さらに輝き始める。
だからどうかそのままでいてほしい。

むしろ今、周りには社会人になることへ絶望している人で溢れている。
でもあなたは希望を持っている。

希望を持ち続けていたら、人生に希望を持っている人が周りに集まってきた。
2022年は大事にしたいと心から思える人にたくさん出会えたよ。

残念ながら2012年のマヤ文明の人類滅亡説は起こらない笑
でも、それでよかったと思う。
2023年以降もおもしろい年になりそうだから。
生きていればいるほど、ワクワクが増える予感がしているから。

あらためて、生まれてきてくれてありがとう。
これからもよろしく。
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