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BLとの距離

ずっとBLに苦手意識があった

人生で初めてそういう種類のエンタメがあると知ったのは中学生の時、同級生が「うちら腐女子だから~~~」と自虐的に言っていたことがきっかけだった。聞きなれないフジョシという単語の意味がわからなかったし、なんで若干卑下した感じだったんだろうと(母校では他のあらゆるオタクが伸び伸びしていてたので余計に)気になってネットで検索した。

そしてそれが男性同士の恋愛もののジャンルであること、それを愛好する人たちが「腐女子」を自称していること、あとは「ホモォ、、、」とつぶやく謎の四つ足の腐女子キャラ?の存在を知った。(最近全然見ないあれ、何だったんだろう。)

同性愛に抵抗がない人が学校にもいると希望を持ったのと同時に、「好きなのにホモって呼ぶんだ」という衝撃、「腐」という文字で連想する自虐的なイメージも相まってなんとも言えない気持ちになった。

加えて画像検索で出てきた露骨な性描写や、攻め受けという区分、「男が好きなんじゃなくて君が好き」みたいな言い回しも、当時はうまく言語化できていなかったけれどなんとなく引っかかった。同時に百合というジャンルがあるのを知ったのもこの時だった気がする。

あの時うまく表現できなかった気持ちを今なら説明できる。

自分と似た存在を作品中に見つけられるクィア作品とは対照的に、当時目にした「BL」や「百合」と括られたジャンルでは男性同士、女性同士の関係が「非当事者にとってのエンタメ」として消費されていると感じた。それは攻撃的な差別とはもちろん違うけど、なんというか「楽しませてくれる別世界の人」として扱われるという抵抗感があった。

そんなわけでBLから距離を置いてきたのだけど、最近になってあるBL作品にはまった。

タイ・フィリピンBLとの出会い

きっかけはクィアでBL/百合オタク歴の長い友人に「一作品だけでいいから」と勧められて観たタイBLドラマ。一番最初に観たのがYoutubeで見つけたDark Blue Kissだった。

Dark Blue Kissの感想を書き始めると長くなるので短くまとめると、私とって初めて安心して観ることのできたBL作品だった。私が中学生の時に見たBLと全然違う!と驚いた。例えば「男が好きなんじゃなくて君が好き」の真逆をいく「男を好きかもしれないがお前の兄さんは嫌い」(大意)なんていうセリフが出てきたりするのだ! (こういうセリフ言いたくなる場面って確かにある!)

他にも心に響いたシーンやセリフがたくさんある。

色んな人が名シーンに挙げる「ゲイである後ろめたさのせいではなく、自分がそうしたいからいい人になりたい」と主人公二人が話す場面は、無意識にモデルマイノリティになろうとしてしまいがちな私のお気に入りの一つだ。

カミングアウトを巡るシーンはどれも心に刺さった。

交際相手がカミングアウトしていないことをもどかしく思う主人公に対してその父親や友達が「カミングアウトを必ずしも好意的に受け止める人ばかりではないから、気楽にできることじゃない」と諭すところ。良かれと思ってアウティングした親友に対して「みんなに言うかどうかは自分で決める」とはっきりと伝えるところ。主人公二人の交際に気づきつつも友人たちがカミングアウトを強く迫らないところ。

主人公カップルの関係性も現実的だと思った。二人には金銭感覚の違いやカミングアウトへのハードルの有無など摩擦の原因になりうる要素があって、実際に互いへの気持ちがすれ違いそうになることもある。そんな時は喧嘩したり話し合ったりして意向の摺り合わせをする。二人のパワーバランスは時に危ういなと感じる部分もあったけど、そういう完璧じゃない部分も含めてリアルに感じた。

Dark Blue Kissを観ながら、ドラマや映画で自分と似た背景を持つ登場人物が日常を生きる姿を目にできるって想像以上に心強いことだと思った。そしてそういう作品のファンであることが「隠しておくべきだ」と思われないことも。

私が思春期に出会ったクィアリプリゼンテーションは、すごくセックス(行為)に寄ったBL/百合や、学校でいじめられたり、家族に拒絶されたり何かと苦労するクィア映画/ドラマのそれだった。確かに「クィアであるがゆえの困難」は悲しいけれど当時も今も現実の一部だろう。でもそれがクィアの人生のすべてのような表象しかないと、気が滅入る。

まだ幼かった私には女性と生きる人生は男性と生きる人生より前途多難に思えたし、クィア女性のロールモデルが見つからないのがじわじわと堪えた。クィアな要素のある映画やドラマや小説が当時は今より少なかったし、その中で希望を感じさせるものはもっと少なかった。(当時はガラケーからスマホへの移行時期だったので、中高生がそういう作品を見つけて保護者や友達に内緒で楽しめる環境もまだ少なかった。)

タイでも同性同士の法律婚は認められていないし、クィアを取り巻く状況がどういうものなのかもよく知らない。けれどDark Blue Kissは私の周りの現実の数歩先を行くストーリーで観ていてほっとした。現実から百歩先の、クィアである困難の何もない理想的な世界だったら素敵すぎて共感しづらかっただろうし、現実そのものだったら観ていて辛かっただろう。こうなったらいいなと思える、手を伸ばしたら届きそうな世界観が心地よかった。

Dark Blue Kiss でBL食わず嫌いを克服した後、タイとフィリピンの作品をいくつか観た。DBKの役者さんが出演していてクィア要素満載の3 Will Be Free, 主人公がBL好きShipper(シッパー:カップリングオタク)のThe Shipper、コロナ禍の現実をいち早く反映したフィリピンBLのGameboys, そのスピンオフで女性同士の恋愛にフォーカスしたPearl Next Door. どの作品も楽しんで観た。

(DBK関連の記事の中でこれには特に共感した。)

もっと観たいもっと知りたい

これまで自分がBLが苦手だったことは自覚していても、なぜなのかわかっていなかった。苦手なポイントを言語化するには対象(この場合BL)をよく観察する必要があるのに、私にはそれができていなかった。

タイ・フィリピンBLをきっかけに、自分が観ていてしんどくなるポイントがわかってきたのでそういうのは避けつつ、面白そうな作品はこれからもっと色々観たいな。

BLの長年のメインターゲットだったであろうシスヘテロ女性にとって、BLの魅力の一つに「男性同士の恋愛だから自分を投影せずに楽しめる」というのがあるんだと想像する。でも男性同士の関係にクィアな自分を無意識に重ね合わせていた私にとってBLは完全な他人事ではなかった。それが中学生の私とBLが行違った理由なのかなと今思う。

タイやフィリピンに留まらず、BL界全体が私が中学生の時に目にしたものとだいぶ違ってきているのだろうか。あれから10年近く食わず嫌いしていたので、どういう変化があったのかもよく知らない。BLの変遷、みたいなことも徐々に学んでいきたいな。

この二冊は必ず読みたい。

もし以下の疑問に答えてくれそうな書籍等ご存知でしたら教えてください。(上記二冊に書いてあるのかもしれないとは思ってます。)

疑問1:BLとクィア作品の関係は?BLもクィア作品の一部分?BLをBLたらしめる要素って?(例えば映画「ムーンライト」とか「ブロークバックマウンテン」をBLと呼ぶことは少なそう。呼ぶのかな?)

疑問2:なぜGL(女性同士の恋愛もの)ではなくBL作品の方が多いのか?(私が勝手に多いと思ってるだけ?)BLとGLではターゲット層が違うのか?


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