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本当は悲しかったこと


こんなことを思う自分がイヤ
こんなこともできない自分がイヤ
こんなふうに考える自分がイヤ
こんなことばっかりしてる自分がイヤ

自分なんて
ちっぽけなのに!
自分なんて大したことないのに!

そんな心の叫びを
葛藤を
立て続けに聞く機会があって。

彼らがそんなふうに思うこと
全部全部ひとつ残らず経験していて、とてもよくわかる。

でも
そう思うことになった経緯や理由は
実はちゃんとあって
それはしっかりとそれぞれの『からだ』に刻まれていて、
刻むことで『守ってきた何か』が必ずある。

これまで生きてこられたのは、
命を支えてきたのは
それらの思いがあったお陰、だったりする。
そう思わなければ、これまで命を
続けることが出来なかったかもしれない。

だからどうか、
そう思ってしまう自分を
消そうとしたり
嘲笑ったり
醜い、情けない、と排除しようとしたり
しないで欲しい。

もしもできるならば、そう思う自分を
そうだったんだね、
と正面から受け止めて、
なにもせずにただ、寄り添って欲しい。

そんなことしたくないと思うのであれば
その思いをただ遠くから
『そっと見つめる』だけでもいい。

到底受け止められないと言う思いがあるのなら
そうだよね、と、受け入れたくないよねと
まずはそちらの思いから受け止めてあげて欲しい。

そうやってはじめて、
『切り離した自分』と折り合いがつくことがある。

深いところの本当の声を聴くことで

ぐちゃぐちゃに絡みまくったものがほどけることがあり
カチカチに冷え切ったのものが溶け始めることがあり
ぼやけて霞んでたものがくっきり見えてくることが

本当に、ある。

気持ちと言われる全ての思いと感情は、
当時、自分が自分を守るために
身体に刻んだ封印。
今はもう不要になっているのなら
見て気づいて、もう大丈夫だよとはずしてあげよう。

ただただ、見て気づいて寄り添うことで
からだのなかにおいてきた、
未完了のものを完了に導いて行こう。

自らが身体の感覚によって
ここにあったとただ気づくことで
お仕舞いに導くだけのプロセス。

それは打ち上げ花火のような派手さではなく
線香花火のようで
じわじわ 沁みいるような感覚で。
だからこそ、身体にしっかりと根付く。
自分はもう大丈夫と言う体感とともに種が撒かれ、根が張れていく。

グラデーションのように微細な変化はなかなか地味で
派手さはないけれど、
気付いたらこんなところまで来ている!
と言う静かな高揚感が味わえる。

確実で着実でシンプルで軽やかで
誰にでもできる健全なプロセスを経て行こう。

意識的にも無意識的にも、
バツばかり付けてきた自分に

よくぞここまで、生きてきたよね。


とそう心からねぎらえたときに初めて

誰よりも自分を愛おしいと感じられ、
『理想の自分でないままで』大きな花丸をあげられるのだ。

ばらばらだった身体と心がひとつになる感覚、
生きている感覚を取り戻そう。



いつもありがとうございます




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