チームワークは分散か集合か

家族でも学校でも仕事でも、チームを組んで何かをすることが頻繁にある。
分業や分担が起きながらも、ひとつの単位として活動することになる。

集合体を維持しながらその中で分散しなければならないわけだが、分散しすぎては同じ方向を見据えられず好きなことをしているだけでチームとは言えないし、集合しすぎては個に漸近してしまいチームを組む意味が損なわれる。
人と人の即興の集まりが組織化する場合には、肉体における細胞の分化のように、担当した組織や器官で求められる性質を獲得し順応できることばかりではない。
「私にこれは向いてないのに」とか「私だけなんか仕事量が多い」といった不満や不適を感じながら働くこともままある。

小さくても一つの社会になると、必ず2割の人は手を抜き始めると言われているし、その分ひときわ頑張る2割の人の搾取が必ず起こる。これはアリの社会ですらみられ、経済学者ヴィルフレド・パレートが『2:6:2の法則』といった。
だから私たちの身近な小さなチームでもこれは起こり得る。とても悲しい現実だ。
それでは搾取のないチームワークとはどういうときに発揮されるのだろうか。そもそもチームワークとはなんなのだろう。

私はこの4月から、社内で担当するプロジェクトが変わりチームも変わった。これまで多くの人が関与していた仕事を一時的にとはいえ、たった2人の即興のチームで動かすことになった。
この少人数のプロジェクト体制ではマンパワーが足りないことが明らかで、全力で協力し、全力で分担し、全力で互いの穴を埋め合うしかない。少人数「なのに」というべきか「だから」というべきか、私はこの環境でこれまでで一番のチームワークらしきものを感じていた。

もちろん組む相手との相性は大きいが、お互いの仕事を大まかにでも全て把握できているため進捗によっては手を貸し合って調整できる人数というのは大変動きやすい。人手が足りないので一緒に行う作業で団結を感じることは少ないが、分担した仕事を互いになんとか回して戻った時は、背中を預けられていると感じる。
コミュニケーションが取れるときには互いに言葉を尽くすことを心がけ、不安や今どんなに助けられているかなどの感謝をなるべく言葉に出すようにしている。
すると当然だが仲間意識も強くなる。
繁忙や苦境にあっても、別々のことをしていても、話し合う時間を持ち主語が「私たち」であるうちは大丈夫だろうと思える。

「私ばっかり残業してる」
「あの人ばっかり得している」
「私ばっかり大変な仕事が振られる」
「あの人は要領がいい」
「私ばっかり休日出勤している」
こうした不満が看過されるチームは、いくら人手があっても楽にはならないどころか精神的にも追い詰められる。
けれど逆に少人数で私たちでやるしかないと思うと、手を抜きようがないし、手を貸せないときは言葉を尽くすことで支え合える。
チームワークとは一つになることだと思っていた私は、必要な時だけ集まって、あとは信頼してうまく分散させることでもあるのかと考えさせられた。
互いに同じ熱量で向き合っていることがわかる相手と、2:6:2の法則が避けられるかもしれない4人以下で働けば、今後もうまくチームワークが発揮できるかもしれないと思うのは甘いだろうか。

個体にしても、組織にしても、ひとつという単位には何かと振り回されがちだ。
私たちは複数の細胞からできていて、複数の器官や組織をもち、様々な「社会」を内包しているがひとつの個人として扱われる。
日々少しずつ入れ替わりついには全ての細胞が変わってしまっても、年齢とともに容姿も考え方や価値観も変わりながらそれでもテセウスの船のように「名前のある個人」として一貫性が求められる。
自己の一貫性などというものは個人的には幻想だと思うが、それでも親しい人や社会からは当然としてそのように扱われる。
不思議な話だが、会社も入れ替わりながら中で働く人も働き方も変わるのに同じ社名を背負う。会社の中の無数のプロジェクトも、進める人を変えながら生き残る。引き継いできたものを最初に考えた人が同じものを見て同じ景色を望んでいたのかはわからない。私たちが子供の頃に見た夢が少しずつ形を変えるように。
だからこそせめて名前や目的や理念といったものを掲げて共有するのだろう。

チームを組む上で、それが正しくても正しくなくても、同じ方を向いていることに加えて同じ背の高さであることは大切にしたい。
同じ景色でも、見え方が違っていては思いは変わるだろうから。

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