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花環を飾って~次七の写真と詩~をめぐる日々

“額にいれて飾りたい、大切な暮らし” というテーマを掲げてフリーペーパーを作り始めたアンプリファイド編集部。いつか、ギャラリーを作ってリアルに額に入れたいよね~と、
なんとなく話していたのですが、いつかという不確定な未来がやってくるのを待ちきれず、額装工房の中にギャラリーを作ってしまいました。そして杮落しに選んだ展示は、次七さんという写真を撮り、詩を紡ぐ表現者さんの作品展。開催までの手探りの日々を記録してくれた、スタッフ亜矢子さんの記事を投稿します。


9 月 某日


「普通に強い憧れがあるんですよ、何も見えないから。」

 今回、額装 Novantiqua 内に生まれた小さなギャラリーでの初めての企画は『花環を飾って~次七の写真と絵~』と題された展覧会。
冒頭のテキストは、その企画を進めるにあたり、工房兼ギャラリーのオーナーである諏訪夫妻とスタッフ2名、そして次七さんを含めた5人のやり取りから、展覧会のコンセプトなどを決めていく過程での、次七さんの言葉です。

 スタッフとして唯一、次七さんに面識のない私は、これまでに発表された詩や写真の数々に触れながら、次七さんという人を知り、その上で展覧会の開催に何らかの形で貢献したいと思っていました。やり取りが進むにつれて、膨大な量の写真のデータを見せて頂きましたが、そこには、やせた野良猫の大あくびのような、この世界の片隅の、何よりも儚い瞬間と、その奥にある強い生命力が同時に写し出されていて
(実際に、野良猫のあくびの写真が沢山あり、あくび集めをして遊んだりもしました)、たとえそれが引っ越しの日の、何もない、誰もいなくなった部屋の写真でも、横倒しの自転車に強い雨が降りしきる写真でも、なぜか体温プラス冬の日向ぼっこくらいの、暖かさと寂しさを感じました。
 
 綴られた詩の数々は、そこにある景色に、次七という人の瞼の裏側の残像や、過去や現在、経験や夢が、幾重にも重なり合うように感じられて(多重露光の写真のように)、あるようでない、ないようである世界を漂うような感覚。まるで、つかまえられることを拒みながらも、するりと体をすり寄せる猫が、ふくらはぎに残していく感触と体温のような読後感。

 そんな詩や写真を発信し続けていながらも、何も見えないってどういうこと?憧れている普通って何だろう?そして、次七という人は一体どんな方なのかしら?

11 月 某日


 個展を約 2 週間後に控え、次七さんに会える日がやってきました。人混みも、電車での移動も大の苦手という次七さん。都内の喧騒や慣れない電車の乗り継ぎを耐え、辿り着いた千葉の(ちょっと辺鄙な加曾利という場所の)諏訪家のお布団で、思いがけずぐっすりと眠れた!!という、その翌朝に初めましてのご挨拶。

 限られた滞在時間の中で、お茶や食事を一緒に取りながら、次七さんが少しずつ話してくれたあれこれ...大好きな音楽やレコードのこと、ギターやアンプのお気に入り、好きなレーベルや詩人のこと、いつかレコード屋をやりたいという夢のこと、あるいは、眠りや食事、タバコとの付き合い方等々。次七さんとの付き合いが長く、音楽の知識も豊富な諏訪夫妻が居ればこその会話を、横で聞きながら私なりに、次七さんという人を知っていく貴重な時間になりました。

 会場は、普段の作業場兼簡易的な展示スペースから、作品が生きる展示空間へ改造の真っ只中。未完部分は想像で補いながら、どこに、どの作品を、どのように展示するのか打合せを進めていきます。あっという間にタイムリミットとなり、次七さんはまた、苦手な人混みと電車の乗り継ぎを耐えるべく、緊張の面持ちで帰途についたのですが、ご本人と直接やりとりができた私は「この人の作品を、一人でも多くの人に見てもらえるように、自分に出来ることをしよう!」 と密かに心の火を燃やしていたのでした...。

12月 某日


 これを書いている今、次七さんの個展は無事に始まり、膨大な候補の中から選ばれた写真と詩は、日々訪れて下さるお客さまの目に、静かに何かを発信し続けています。一枚の写真に詩の断片を添えて一緒に額装した作品もありますが、主に壁面に並ぶのは次七さんの手による写真の数々。そして、いくつもの詩は、紙に印刷したものをお客さまにお配りし、写真と共に、あるいは帰宅後にゆっくりと...お好きなときに楽しんで頂けるように、と企画しました。気に入った写真
があれば、枚数は限られますがプリントと額装のご用意もしています。

 
「ずっとひとりで何も見えませんでしたが、カメラが目になってくれていたんだなと、振り返っています」

 準備期間にそんな言葉を上げていた次七さん。うっかり見落とすことも、見誤ることも多い私ですが、この「何も見えない」ってどんな感覚なのか、時々、思いを巡らせています。そして「何も見えない」は「見えすぎる」によく似た感覚なのかもしれない、という仮説を密かに立てています。
 
 友人に、音情報が「聞こえすぎる」人がいるのですが、例えば喫茶店で、目の前の人との会話と同じように、隣のグループの会話、店員同士のやりとり、店内の BGM などが一斉に音の情報として入ってきてしまうことで、全てが聞こえない=意味のある言葉として聞き取れない。そんな状態になることがあるそうです。さらに、頭の中にも音が流れているので、聞きたい音だけに集中し続けることが難しい、とも。(因みにその友人は抜群のリズム感とドラム愛に溢れたドラムの名手です)

 次七さんが仮に「見えすぎる」世界を生きてきたのならば、カメラを介することで、情景をフレームで切り取り、被写体に集中することが可能になり、まるでカメラが目になったように、世界を見ることができるのかも...なんて、次七さんの写真に囲まれた空間で、彼の詩を読み返していると、そんな気がしてきます。

 展示中の写真(会期中に入れ替え可能性あり)に、「窓」と題された4枚組の写真があるのですが、窓越しに切り取られた、ごくありふれた空の断片は、慌ただしく暮らしていたら気に留めることもなく過ぎていく一瞬の光景ばかり。モノクロームの空に鳥の群れ。青空には数羽が羽ばたく様。ぼんやりとした一枚にはぼんやりとした鳥たちのシルエット。そして何も飛ばない、何かに視界を遮られたような一枚。それらの瞬間を今、写真の中に見ている私は時間の流れが止まるような、時間という概念が存在しなかった子供時代のような心持になります。

 ただ行きたい町がある
 昔の自分に合えそうで
 月の左にはりついたまま
 昨夜笑ったばかりなのに

 これは今回お配りしている詩の作品群の”序”として書かれた言葉です。何だかやはり、つかまえようとすればするりと身をかわす猫のよう。ぐるぐると繰り返し巡る歌の一節のよう。

冬の一日に、そんな言葉たちと写真のある空間でゆっくりと過ごされてみてはいかがでしょうか。

『花環を飾って 次七の写真と詩』はNOVANTIQUAギャラリーにて、12月24日まで開催。

(文・亜矢子)

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