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「わたし」

私の人生の大きなチャプターの一つが終わろうとしている

....。

なんか、大げさやなあ、と思いつつ、それが私の素直な気持ち、かなあ。

私の大切な、酸いも甘いも全部詰まったスウェーデンでの暮らしが、もうすぐ、終わる。終わりたくないよと毎日泣いている、いい歳なのに、もう私はこのまま変わらないみたいだ。



3月ごろに、私は「満ち溢れる」という感覚を知って、自分の心の中にメモするとぐちゃぐちゃになったので、noteに記しておいた。

子どものころは、豪華でおしゃれなシルバニアファミリーのような家に住んで、いい仕事があって、そんなことが「満ち溢れる」ことだと思っていた。だって、それをみんな夢見るからおもちゃがあるわけで、大人の理想の投影の結果を、おのずと自己の理想の形にしていた。それが子ども、私は自由ではなかった。

大学に入ってからは、そんな暮らしがしてみたくて、いつか私は母親も、自分も、満ち溢れた暮らしができるようになりたいなって、切迫感と、必要以上の責任感と、そして自己承認欲求に追われていた。多く稼ぐために、多くの社会問題を解決するために、母を楽にするために、、、将来困らないように、負けないように、、、、




本当に満ち溢れたときは、自分の外部に所属しているものは何もなく、でも自分の体と心に何かがあったかくて、そして静かな「何か」が広がっている感覚があるのだ。地味で、たぶんなんか気づかないまま一生を終えることも不可能ではないと思う。でも、確かに広がっている感覚があって、それが私を地面と空とをつないでいく。

水面に広がる夕陽を見て、新緑の若々しいにおいを嗅いで、降り注ぐ雨の音を聞いて….コーヒーを飲む。
人とただ笑い合う、泣く、本気でぶつかる。歩く、走る、座る。
いろんなものを作って、頂く。


その時、自分には何もなくても、ただそこに存在する。
一円も稼いでいないし、大して誰の役にも立ってない。効率なんてものも存在しない。環境問題も人種差別も解決していない。

価値のない人間でも、中に広がっている「何か」は誰も見えないし、干渉できない。私は私の中に大切なその何かを、丁寧に、丁寧に、入れさせてもらえた。その何かって、なんやねん、って言われたら難しい、言語化っていつでもできるものじゃない。でも、強いて言うなら、私が今後どのような人生を生きようとも、たとえホームレスになる運命でも、その何かは私の中で消えずに、命が消えるまで効くおまもりのようなものだ。私が、私として存在し、私たらしめるものを曲げず、汚さず、生きていくための、


その何かは、スウェーデンが大切に大切に紡いできた自然と、文化と、そして、ここで私を包んでくれたたくさんの愛が生んでくれたのだと思う。

私はきっと、この「何か」が必要で、スウェーデンに来た。
誰もこんなこと、理解してくれないと思うけど、でも見えないものでも私の中にあるからいいんだって、そう思ってる。



これから先は、お金にならないことは、基本的にやりたくてもやりにくいだろう人生が待ってる。目に見えない成果は、ないものとして扱われるかもしれない。
勿論そういう社会で生きていくからこそ、明日のご飯が待ってるのだから、そこに文句はない。

ただ、私のこれからの勝負は、何があっても「わたし」を守り抜くことだ。
別に反抗しなくていい、社会にたてつかなくていい、何も事を起こさなくていい。

自分の中にある「何か」を大切に、そして丁寧にケアしていけるかどうか。
いや、していく。意地でも、そこだけは、唯一のこだわり。


ここまで来られて、よかった。
あらためて、たくさんの人に、私はただただ、ありがとうと言いたい。
「わたし」を諦めないでくれてありがとう。


そして、私をスウェーデンに導いてくれた、「わたし」。
ありがとう、あなたと一緒に、ここまで来られたこと、あなたに新しい学びがあったこと、とてもとても、うれしい。


うれしい。






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