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死を『無』だと感じてしまう自分がいるのなら


かのんです。


生きている。


この言葉の響きが
愛する人を失った者にとって
余計に死を
強く認識させるのかもしれません。

この目に映らないからこそ
生きていると思えない。
生きていると思えないからこそ
死んだのだと捉える。


どれだけあちらの世界や
天国から見守ってくれている人たちが
視えると語る人たちの
言葉を信じようとも
自身が視えないし
聞こえないのだから
信じようにも信じられない。


信じるためには
確固たる証拠が欲しい。


そう思うのも当然のこと。


元々精神世界や
スピリチュアルが好きな私は
そのことに
何の違和感も疑問も持つことなく
純粋なまでに信じることが出来た。


だからこそ
両親もあちらの世界で
生きていると思っているし
見守ってくれていると思うことも
とても容易かった。


そして何より
そう信じていることで
私自身がとても救われている。


信じられない人は
無理に信じようとしなくてもいい。


その人のココロの中に
愛する人が生きてさえいれば
それで十分。


ただ
死を無としか捉えられなくて
何ひとつ信じられるものも
すがるものもなく
死への願望が
いつも頭をよぎるのなら
あちらの世界というものがあって
そこに愛する人はいるらしいと
疑いながらでも
信じてみるのもいいんじゃないかな。


死を無だと思うから苦しい。
死を無だと思うから悲しい。


ならば
あちらの世界に
愛する人がいるらしい。と。。。


それは即ち
『無』ではなく
姿は見えないけれど
『在る』んだと。


そう思うことで
少しでも生きる力になるのなら
少しでもココロが救われるのなら
それがその人にとっての真実。


誰が何と言おうと。
自分の中に
そんなこと信じられないよ。
という思いが根深くあろうと。


身体の真ん中に流れる想いが
温かいものであるならば
その温かさこそが
ここにいるという
天国の愛する人からの伝言。

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