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すばらしき世界で生きるということ。

※ネタバレあります。

映画「すばらしき世界」を観た。

世界の不条理をつきつけられた。涙が止まらなかった。

この「すばらしき世界」で生きるとはどういうことなのか。

唐突なラストの意味が最初はわからず,え,なんで!?ってめっちゃ戸惑ったのだけど,あのラストが映画の主題を成立させてることに気づいて,映画館からの帰り道,また泣いた。

この世界の不条理と。

それに対する虚無感と屈辱感と。

自分に対する無力感と。

世界と自分に対する絶望感。

感情を強く揺さぶられる映画だった。

すばらしき世界というタイトルがあまりにもアイロニックに感じられる。

すばらしき世界で生きるためには,人間はどこかで自分を殺さなければならないのかもしれない。

善にふるか,悪にふるか。その極端な2択しか選択肢を持たなかった三上みかみにとって,そんなすばらしき世界で生きることは残酷だった。

すばらしき世界で生きるということは,三上みかみにとって死と同義だった。

昔の暴力団の仲間に会って,変わってしまった組織の内情を知り,悪にふれる道は閉ざされた。

三上みかみは善にふれようと一歩踏み出した。

もう一度人生をやり直せるようにと,温かい人たちが支えてくれた。


仕事を見つけた。

介護施設で,自分の役割を見出せたように感じた。

職場の青年と一緒に花を植えた。

別れた妻と電話で話して,将来の約束をした。

文字通り,「すばらしき世界」やだった。未来に希望を見出したかにみえた。

私は,三上みかみに明るい明日がやってくると錯覚した。

でも確かに前兆はあった。


時には目の前の現実から逃げることも必要だということを肯定した。

青年が暴力を受けている現場を見て,必死で見て見ぬふりをした。

青年の悪口を言う他の職員に同調した。

そんな社会に適応するために取った一つ一つの選択が,三上みかみを殺した。自分の気持ちに嘘をついて生きていくことは,三上みかみにとって直接,死だった。

今,この「すばらしき世界」で生きている私は,この世界で生きることと引き換えにどこかで自分を殺しているのかもしれない。

毎日嘘をついて,どこかで自分を抑圧して。そうしないと,生きられないから。

カミュの「異邦人」で描かれる不条理と似たものを感じた。この世界で自分の気持ちにまっすぐ生きるのは,いつの時代も苦しい。

それでも生きなければならない。世界と折り合いをつけながら。

自分らしさとか,ありのままとか。そういう生き方がもてはやされるのは,本当の意味で自分らしく生きることはできないことの裏返しなのかな。ままならない。

ぐるぐる考えていると,回りまわって自分らしさに固執して生きる必要はないのかなと思った。そんな生き方はほぼ不可能やから。

自分の目の前のことにちゃんと向き合って,時には諦めて,折り合いをつけながら生きていればそれで良いのかも。

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