第10章 「元素と原子の話(3)」
「学問こそが最高の娯楽である」シリーズの第10章。このシリーズは毎週土曜日18時前後にアップします。
「元素と原子の話(1)」「元素と原子の話(2)」の続きです。
さて、忘れている人もいるかもしれませんが、この話のテーマは「元素と原子って何が違う?」ということでした。
読みながら「結局この2つの具体的な違いの話が出てきてないやん!」と思われた方もいるかも知れません。
安心してください。
ちゃんと最後にはまとめますので(笑)
前回は19世紀のアボガドロの分子説と周期表の登場まで話しましたが、一気に現代の話にまでつなげていきましょう。
ペース配分を間違えたので、今回は盛沢山で長いです。。
1. 「モル」の話
さて、高校化学ではじめて習う「mol(モル)」という単位について、ちゃんと理解できていますでしょうか?
この「モル」という単位は、世の中に化学嫌いを量産する主犯格の1つだと言われています。
今回の記事を読み進める上で、「モル」がわかっていないとちょっとつらいので、解説させてください。
モルとは何か。
簡単です。
「〇〇モル」は「大さじ〇〇杯」とほぼ同じような意味です。
「モル=盛る」と覚えておけば大丈夫です。
ダジャレみたいなもんですが、「モル」のおおもとの語源はラテン語の「mole(=ひとかたまり)」ですので、ほぼ意味としても同じです。
納得がいかない人のために、もう少し具体的に解説しましょう。
砂糖や塩の粒の量を数えるときに、〇〇粒なんて数える人がいるでしょうか?
いないですよね。
もし、「ここで砂糖を1586粒を加えます」なんて言い出す料理番組があったらドン引きです。
1粒、2粒なんてレベルで数えられないから大さじ、小さじで数えます。
この「数えられない」というのが重要です。
要するに、原子とか分子とかの粒子一つ一つは数えられないので「モル(大さじ)」を使うわけです。
19世紀の科学者たちにとって、原子や分子というのは見たこともないし、どんな大きさか、どんな形かもわかりませんでした。
でも、どうやら水素と酸素はちょうど2:1で反応するらしい。
そして重さを量ってみると、水素1 gに反応する酸素はちょうど8 gになっている。
じゃあ、水素原子が1 gのかたまりを1モル(粒子が何個か知らんけど)としましょう。
これと反応する酸素はちょうど半分なので、0.5モルになりますね。
なので酸素原子は0.5モルで8 g、1モルで16 gということになります。
おなじ1モルなのに、水素原子よりも酸素原子の方が16倍も重たいですね。
これが「原子の相対質量」であり、ドルトンが提唱した「原子量」です。
原子量・分子量の単位にはドルトンの名前からとった「Da(ダルトン)」が現在は使われています。(私が大学生のころには非公式単位で、これを使うと怒る教授もいました。)
ちなみに、最初は一番軽い水素原子の原子量を1として、他の原子の原子量を計算していたんですが、問題が生じました。
水素は軽すぎ問題。
水素と言えばめちゃくちゃ軽いガスだということは一般人でもよく知っていますね。
水素は軽すぎてちゃんと精度よく量るのが難しかったのです。
一方の酸素は、水素の16倍の質量があって量りやすく、しかも色んな元素と容易に反応して化合物をつくるので、基準にするのに都合がよい。
じゃあ酸素の原子量を基準にしましょうや。
ということになって、しばらくは酸素の原子量を16としてこれを基準に他の元素の原子量を測定する時代が続きました。
現在はより精度よく測定できる「質量数12の炭素原子」が基準になっています。
モルの単位と原子量・分子量を使えば、物質中の元素の量を重さで計算できて便利ですので化学者は皆、この単位を使うようになりました。
「ところで、結局1モルの中に粒子は何個入ってるの?」
という疑問を解決したのは、熱力学の研究を行っていた物理学者たちです。
2.物理学者による気体の分子運動論
さて、気体の正体を目に見えない小さな粒子であるとする仮説は、物理学の世界ではドルトンの原子論の登場以前から存在し、元素の研究とは独立に18世紀~19世紀にかけて発展していました。
「原子論」を唱えたドルトン、それを発展さえた「分子説」を唱えたアボガドロはどちらも化学者でありながら、熱力学の研究を行う物理学者でもあります。
高校の物理の授業で「気体の分子運動論」というのを聞いたことがあると思います。
余談ですが、私が高校時代に「物理っておもしれえ!」と思った最大のきっかけは気体の分子運動論でした。
ここからは気体の「分子運動論」という仮説の研究について、歴代の天才物理学者たちの名前と共に紹介していきましょう。
登場する物理学者たちの名前は高校化学の教科書には登場しませんが、どの人も全部高校の理論化学で習う重要な発見をした人たちです。
まず最初に気体を激しく飛び回る小さな粒子に仮定したのは数学者でもあるダニエル・ベルヌーイです。
彼は17世紀にロバート・ボイルが発表した「ボイルの法則」について、「気体の圧力は壁面への粒子の衝突によって生ずる」と仮定し、これを見ごとに理論的に証明して見せました。1738年のことです。
これが気体の分子運動仮説の始まりとも言えます。天才ですね。
この仮説の登場以来、百数十年にわたって物理学の世界は気体を粒子の運動に仮定する原子論派と、あくまでも粒子の存在を前提としないエネルギー派で二分されることになります。
この百数十年にわたる熱力学の発展の歴史はとても面白いのですが、またの機会に紹介することにして今回は割愛します。
さて、気体を分子の運動と仮定した場合、おのずと「空間の中に粒子は何個あるのか?」という問題が発生します。
世界で最初に「一定体積中の気体の分子の数」を理論的に計算可能にしたのはヨハン・ロシュミットというオーストリアの物理学者(兼・化学者)です。
彼は1865年に過去の研究者たちの構築した理論を元に、気体分子の大きさを推定しました。
この気体分子の大きさを使うことで、一定体積中の気体の分子の数を計算することができます。
ただし、ロシュミットが推定した気体分子のサイズは実際の2倍程度であったため、そこから計算される分子の数は10倍程度の誤差が生じていました。
しかし、当時の測定技術から気体のサイズを推定する理論を構築した業績は大きく、その後にはより正確な数値が出せるようになっていきました。
彼もまた、科学史を代表する天才の1人ですね。
さて、このように物理学の理論から実際の分子の数を計算する方法が考案され、その精度もかなり良かったのですが、大きな問題がありました。
それは気体の分子説はあくまでも「仮説」に過ぎないということです。
誰も実際に原子や分子を見たわけではありません。
これではエネルギー派の物理学者を納得させることはできませんでした。
3. アボガドロ数の実験的証明
さて、この写真の人物が誰かは説明するまでもありませんね。
20世紀を代表する天才物理学者アルベルト・アインシュタインです。
アインシュタインと言えば「相対性理論」が超有名ですが、当然ながら彼の業績は相対性理論だけではありません。
彼の研究成果の1つが、実は分子の存在証明に大きく貢献しました。
この話をする前に1人紹介しなければならない人物がいます。
イギリスの植物学者ロバート・ブラウンです。
彼はアインシュタインが生まれる約50年前に、植物の研究を行っていて偶然にも物理学上の重要な発見をします。
彼は水面に浮かべた花粉を顕微鏡で観察したのですが、花粉が浸透圧で破裂し、中から出てきた小さな微粒子が、水中で不規則に動き回ることに気づきました。
彼はこれを花粉が持つ生命エネルギーだと考えたようですが、実は生命とは全く関係がなく、同じぐらいの小さな微粒子なら有機物・無機物に関係なく同じように動き回る現象だったのです。
これを「ブラウン運動」と呼びます。
アインシュタインはこのブラウン運動に興味を持ち、理論上の考察を行いました。
アインシュタインは、この現象は「水の分子」が四方八方から微粒子に衝突することで起こると仮定し、1905年に以下のような理論式を導き出して論文にまとめました。
実は「ブラウン運動の原因が溶媒分子の衝突である」という仮定自体はアインシュタイン独自の発想ではなく、それ以前にも同じことを考えた人は何人もいたのですが、顕微鏡で測定可能な数値から計算できる式を作ってしまうところがアインシュタインの天才たる所以です。
この式の中のNが「1モルあたりの分子の数」です。
そして、アインシュタインの面白いところは
「この式を使えば、たぶん1モルあたりの分子の数を出せると思うんやけど、誰か実験して確かめてよ。」
と論文の中で呼びかけたことです。
自分でやらんのかい。
彼は完全な「理論」物理学者で、実験が苦手だったんです。
そこで、「よっしゃ、いっちょ俺が試したろ!」と手を挙げたのがこの人です。
フランスの物理学者ジャン・ペランです。
彼は植物の樹脂から得られる大きさのそろった微粒子を使って実験を行い、アインシュタインの式から「1モルあたりの分子の数」を導き出しました。
この値は熱力学の理論計算から導かれる値ともよく一致したため、この事実をもって、ついに分子の実在が証明されました。
それまで分子の存在に懐疑的だったエネルギー派の物理学者たちも、ついには認めざるを得なくなり、アボガドロの仮説以来の論争に決着がついたわけです。
1908年のことです。
なお、この業績によってジャン・ペランはノーベル物理学賞を受賞しています。
そして、この「1モルあたりの分子の数」はジャン・ペランの提案により、アボガドロ数と名付けられました。
実際の数値「6.02 × 10^23」は化学の専門家なら誰でも知ってる数字ですね。
ちなみに、この裏話として、実はアインシュタインのブラウン運動に関する論文は、彼の博士論文だったのですが、本当は別の論文を出したのに大学側が理解してくれずに受理されず、しゃあなしで代わりに出した論文だったのです。
彼が本当に出したかった論文こそが、あの「特殊相対性理論」だったというのは、物理好きの間では有名な話です。
第二候補の論文が他の人のノーベル賞につながるなんて、正真正銘の化け物ですね。
4. 元素の周期律の謎に迫る
さて、原子・分子は無事に実在が証明されましたが、化学の元素にはまだ謎が残っています。
なぜ周期的に似たような性質の元素が登場するのか。
どうやら原子量と関係がありそうだけど、なんでそうなるのかよくわかりません。
周期律が発見された19世紀後半から20世紀初頭にかけて、この謎が一気に解けていきます。
ここから先の解説は、細かい部分をかなり端折りながら少し駆け足で解説していきます。
歴史的な流れだけざっくりと理解していただければと思います。
まず、電磁気学の研究を行っていたドイツ人物理学者のハインリヒ・ルドルフ・ヘルツが重要な発見をします。
周波数の単位「Hz(ヘルツ)」の由来になった人です。
彼は1887年の実験において、物質に特定の周波数を持つ光を当てると放電が起きること(光電効果)を発見しました。
この光電効果の理論解明にあたっては、アインシュタインが「光量子仮説」を発表し、ノーベル物理学賞を受賞しています。
光電効果の発見とは別に、真空に近いガラス管の中に電極を入れて電圧をかけると、陰極線と呼ばれる放電現象が起きることが知られていました。
この陰極線の研究において、イギリスの物理学者ジョセフ・ジョン・トムソン(通称ジョジョ…ではなくJ・J トムソン)が、陰極線の正体が原子よりも小さな粒子であることを突き止めました。
これらの事実から、複数の物理学者たちによって「原子の中にはもっと小さな電子という粒子が存在する」ということが定説化されました。
さて、どうやら原子は物質の最小単位ではないらしい。
ここから先の一連の発見にはすべて下の写真の人物が関わっています。
イギリス領ニュージーランド出身のアーネスト・ラザフォードという物理学者で、「原子物理学の父」と呼ばれる人物です。
そして上述のJ・J トムソンの弟子でもあります。
まず彼は1911年に放射線を使った実験で「原子核」を発見します。
これにより、「原子」はプラスの電荷を持つ「原子核」の周りを「電子」が周回している構造であると推定され、下のような「ラザフォードの原子模型」が考案されました。
元々は原子は左側の球状の物体のような姿だと思われていたのですが、本当は中身がスッカスカで、飛び回っている電子の静電反発のバリアのおかげで見た目上は球体の様に振舞っていたわけです。
さらにその2年後、ラザフォードの弟子のヘンリー・モーズリーが、原子に電磁波を当てたときに生じる特性X線のエネルギーが、原子核の電荷の数に対応していること(モーズリーの法則)を発見しました。
そして原子核の電荷の数は、元素の周期律の順番にそのまま対応できることがわかりました。
つまり、元素の化学的性質にとって重要なのは「原子の相対質量(原子量)」ではなく、「原子核の電荷(原子番号)」だということがわかったのです。
さて、かなり急展開でわかりづらかったかもしれませんが、要するに元素の性質は原子の持つ電気的な性質で決まるということです。
一方、同時期に同じくラザフォードの弟子のニールス・ボーアは、原子核の周囲を周回する電子には特定のエネルギー準位(電子軌道)が存在することを発見します。
この結果を元に、ボーアは「ラザフォードの原子模型」を改良した「ボーアの原子模型」を考案します。
高校の化学で習うやつですね。
この図の中で、水素、リチウム、ナトリウムの原子には共通点があります。
一番外側の電子軌道に入っている電子の数が同じ(いずれも1個)なんですよね。
この「最外殻の電子の数」が元素の化学的性質を決めているということがわかりました。
原子は原子番号が増えた分だけ電子の数が増えていくのですが、各軌道に入る電子の数には上限があるので、「最外殻の電子の数」は1~8個で周期的な繰り返しになります。
つまり、ついに「元素の周期律」の謎が解けたわけです。
かなり駆け足でしたが、重要なことをまとめると以下の3つです。
1. 原子は「原子核」と「電子」の組み合わせでできている
2. 元素の性質は原子量ではなく、「原子番号」ごとに異なる
3. 元素の化学的性質を決めるカギは原子の中の電子配置である
なお、この節で紹介した研究成果はすべてノーベル賞級のものばかりで、実際にJ・J トムソン、ラザフォードとその弟子たちで何個もノーベル賞を受賞しています。
残念ながらヘルツとモーズリーは早世したために賞を取れませんでしたが、生きていればほぼ間違いなく受賞していたでしょう。(なお、モーズリーは第一次世界大戦で戦死しています。)
5. 同じ元素でも異なる原子が存在する
ラザフォードとその弟子たちの研究グループは、原子核の中の陽子(電荷が1)と中性子(電荷が0)が存在することも発見します。
この発見によって「原子番号=陽子の数」「原子の質量≒陽子の数+中性子の数」であるという事実を証明して、原子番号と原子量の間に隠された謎が完全に解明されました。
ここで、中性子の数は元素の化学的な性質には全く影響しません。
ということは、同じ元素(化学的性質)で中性子の数だけが違う原子が存在するのではないか?という疑問が生じます。
これを発見したのはラザフォードの師匠J・J トムソンのグループです。
元素周期表の上では同じ「元素」なのに、原子核の質量が異なる「原子」、つまり「同位体」の発見です。
ちなみにこれで、原子量の数字が中途半端な原子の謎もとけました。
例えば早くから発見されていた「塩素」は、その原子量が「35.45」という、とても中途半端な数字になっています。
これは「質量数(=陽子の数+中性子の数)」が35の原子と37の原子が天然の同位体として約 3:1 の比で混ざっているからなのです。
上の方で書いた原子量の定義を思い出してみてください。
「質量数12の炭素原子」が基準になっていると書きましたね。
実は炭素の原子量もちょうど12ではありません。
技術が進歩して精度よく量れるようになってみたら、炭素の「原子量」は12.01でした。
約1%ほど、「質量数13」の炭素原子が混ざっているわけです。
なお、フッ素のように天然に存在する同位体が1つしかない元素も存在します。
どうです?
「元素」と「原子」は別物だということがわかりますか?
「元素」は化学的性質に注目した分類で、「原子」は元素を決定する物質そのものに注目した表現です。
理系であれば、ちゃんと意識して使い分けられるようになっておきたいですね。
ところで、原子核の中に中性子が存在する理由とは何でしょう?
実は陽子だけではお互いに静電反発で離れようとする力が強すぎるので、中性子が間に入って原子核を安定化させる働きをしていることがわかっています。
この中性子の数は多すぎても少なすぎても問題があります。
つまり、中性子の数がベストではない同位体の原子核は不安定になります。
不安定だとどうなるのか。
ある確率で原子核の崩壊(壊変)が起きます。
原子核から別の原子核(α線)が飛び出して原子番号が小さくなったり、中性子から電子(β線)が飛び出して陽子に変わって原子番号が大きくなったりします。
早い話が別の原子に変わっちゃうんですね。
「原子そのものの性質は変わらない」としたドルトンの仮説は間違いでした。
これが「放射能」と呼ばれるものであり、放射能を持つ同位体を「放射性同位体」と呼びます。
このあたりの話は、またの機会にしましょう。
6. おわりに
さて、「元素と原子の話」はいかがだったでしょうか?
書きながら思ったのは、これは3回の記事では無理やなということです(笑)
できれば理系ではない読者にも理解してもらいやすいように工夫するため、実は個人的な判断で重要なこともあえて割愛したりしています。
特に最後はかなり駆け足になってしまいましたが、なんか化学も面白そうだと思ってもらえればうれしいです。
なお、歴史に詳しい方はすでにお気づきでしょうが、元素の謎が次々に解明されていた19世紀後半から20世紀初頭というのは、ちょうどペリー来航から第一次世界大戦までの時期に相当します。
20世紀に入ったころからは、日本人科学者も遅ればせながら科学の最前線で活躍し始めます。
有名なところとして、東京帝国大学教授である長岡半太郎が1904年に提唱した「土星型原子モデル」は、ラザフォードの原子模型の参考にされたと言われています。
そして、ノーベル賞が設立されたのは20世紀の初めの年1901年です。
このあたりの歴史的背景にも思いをはせると、いろいろと見え方も変わってくると思います。
この記事を書くにあたって、下記の2冊の書籍を参考にさせてもらいました。
どちらも高校レベルの知識でも理解できるように書かれており、読み物としてとても面白いので、興味があればどうぞ。
「ベーシック化学: 高校の化学から大学の化学へ」(竹内 敬人、同仁化学)
「化学のコンセプト―歴史的背景とともに学ぶ化学の基礎」(舟橋 弥益男, 秀島 武敏, 小林 憲司 、同仁化学)
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