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第9章 「元素と原子の話(2)」

「学問こそが最高の娯楽である」シリーズの第9章。このシリーズは毎週土曜日18時前後にアップします。

元素と原子の話(1)」の続きです。

前回はドルトンの原子説まで話しましたのが、今回は原子説の問題点とそれを補う発見の歴史についてのお話です。

1. ドルトンの原子説の問題点

さて、ドルトンが提唱した原子の概念は次のようなものでした。

① 「それ以上細かくは分割できない粒子」こそが「元素」の正体であり、これを「原子」と呼ぶことにする。

② この世に存在する物質は全て、一種類の原子か複数種の原子が結合して出来たもの(化合物)である。

③ 元素ごとに原子の種類があり、同種の元素の原子は化学的性質と質量が同じである。

④ 化学変化は、原子の結合の組み合わせが変わるだけであり、化学変化の前後で、原子は無くなったり新しく生まれることはない。

なるほど、現在の感覚で見てもおよそ正しいように見えます。

しかし、当時はこの仮説に懐疑的な化学者も少なくありませんでした。

なんせ、ドルトンを含めて実際に原子を見た人はいないわけですから、実証主義が重視されるようになった当時では、仮説を鵜呑みにはできないというのはむしろ正しい反応だと言えます。


そして、この理論に早速問題が生じました。

フランスの化学者ジョセフ・ルイ・ゲーリュサックの「気体反応の法則」です。

気体反応の法則とは、「ある2種類の気体が化学反応を起こして別の気体に変わるとき、元の気体と生成する気体の体積は同じ条件(同じ圧力、同じ温度)なら簡単な整数比になるという法則です。

まあ、言葉で言ってもわかりにくいと思うので図で書くと下の図みたいな感じです。

2リットルの水素はちょうど1リットルの酸素と反応して、2リットルの水蒸気ができます。

これがなぜドルトンの原子説にとって問題なのかというと、まずこの気体反応の法則には「同じ条件(同じ圧力、同じ温度)なら単位体積の気体の中に含まれる原子の数は同じ」という前提があります。

つまり、反応する体積比はそのまま原子の数の比を表すわけです。

これをドルトンの原子説に当てはめて単純な式にすると、次の様になります。

あれ?

数が合わへんやん。

酸素足りなくね?

いや、ちゃうちゃう。

水はHOじゃなくてH2Oや。

水素2個と酸素1個の組み合わせや。

あれ?

もっと数が合わへんくなったやん。

どうしても2:1:2の比率になりません。

なんでなん。

なんや、ドルトンの話も眉唾やなあ。

と、なったところで、この問題を見事に説明する仮説を提唱する人が現れます。

2. アボガドロの分子仮説

この肖像画はアメデオ・アボガドロというイタリア人の化学者です。

そうです。アボガドロ定数の名前の由来になった人です。

日本にはアボドのことをアボドと間違って覚えている人がいますが、これを「アボガドロの呪い」と呼びます。

ウソです。ごめんなさい。

さて、このアボガドロさんですが、目からうろこな仮説を提唱して「ドルトンの原子説」と「気体反応の法則」の間の矛盾を解決します。

気体の粒子って、たぶん原子1個じゃなくて2個一組なんやと思うで、と。

なんのこっちゃ。

要するに、下の図みたいなことです。

はい、数の問題解決しましたー。

これを元素記号を用いた化学式で書くと下記のような、よく見る式になります。

アボガドロすごくね!?

正確にはアボガドロは「同一圧力、同一温度、同一体積の気体にはある定数の粒子が含まれている」とし、この粒子を「分子」と名づけました。

これを「アボガドロの法則」あるいは「アボガドロの分子説」と呼びます。

ちなみにほとんど同時期にアンドレ=マリ・アンペールという科学者も同じ結論に至っていますが、先に提唱したアボガドロの名前が残っています。科学の世界は早い者勝ちですからね。

なお、このアンペールは以前の記事「単位のことは歴史に学べ・後編」でちょっと紹介したアンペアの単位の由来になった有名な科学者です。

さて、ドルトンも他の化学者も、1種類の元素からできている気体は1個の原子でできていると思い込んでたわけですが、実はほとんどの元素単体の気体は2個1組やったわけです。

しかし、アボガドロの仮説は先鋭的すぎたために、科学者に受け入れられるにはかなりの時間を要することになりました。

アボガドロの法則が発表されたのが1811年、それが科学界で完全に受け入れられるようになったのは1860年にドイツのカールスルーエで開催された国際会議でした。

ほぼ50年後のことです。

18世紀後半から19世紀前半にかけて、あらゆる元素が発見されていましたが、実は同じ元素でもその原子量は化学者の見解によってバラバラでした。

それはアボガドロの法則が受け入れられていなかったことが原因であり、これが受け入れられるようになったことで、それまで発見されていた元素の原子量が統一されることになったのです。

約半世紀後にその真の価値が認められる発見ってシビれますよね!

3. 周期表の登場

さて、アボガドロの法則のおかげでそれぞれの元素の原子量が統一され、比較できるようになったわけですが、そこで2つの重要な発見がありました。

① 元素が異なると原子量も異なる。(一部例外あり)

② 性質が似通った元素の組み合わせがいくつか存在する。

ここで①の点に注目し、原子量の順番で並べてみたらなんかわかるんじゃないかと考えた化学者がいました。

ロシア人化学者のドミトリ・メンデレーエフです。

人名がいっぱい出てきてそろそろ覚えきれなくなってきたんじゃないでしょうか?

個人的にはラボアジエ、ドルトン、アボガドロ、メンデレーエフは高校で習う理論化学の四天王ですので、この4人だけでも覚えておいてください。

あとはときどきでいいのでプルーストとゲーリュサックのことも思い出してあげてください。

とりあえず周期表と言えばメンデレーエフ、メンデレーエフと言えば周期表。

化学者はみんな大好き、髭もじゃのメンデレーエフと覚えましょう。

さて、メンデレーエフは1869年に、それまでに発見されていた63種の元素を原子量の順番に並べると「周期的に似たような性質の元素が出てくること(元素の周期律)」を発見し、世界に発表しました。

これが世界初の元素周期表です。

現代のものとはずいぶん形が違うように見えますが、よく中身を見ると、現在の周期表の原型ともいえる構成になっていることがわかります。

元素記号の左の数字は当時の技術で算出されていた原子量です。

なお、青字は現在は使われていない元素記号で、Yt(イットリウム)は「Y」、J(ヨウ素)は「I」に変わっていますが、あえて当時の表記にしてあります。

また、赤字は当時は「ジジミウム」という元素と考えられていましたが、後にネオジムとプラセオジムの混合物で、元素ではないことがわかりました。

とりあえず、似たような性質の元素が縦に並び、7つのグループに分けられることがわかりました。

といっても、完全に矛盾しないような内容にはなっていません。

たとえば、銅(Cu)、銀(Ag)、金(Au)は、原子量の数値的にはグループIに入りそうだけど、性質としてはグループVIIIです。

当時はまだ、なぜこのような周期的な性質の類似性が出るのか、また、なぜ一部で矛盾するのかはわかりませんでしたが、大きな発見であり、元素の理解に大いに役立ちました。

例えば、周期表の「Zn(亜鉛)」と「As(ヒ素)」の間の「??」で表されている部分、ここは当時はまだ未発見の元素(ガリウムとゲルマニウム)でしたが、メンデレーエフは見事に性質と原子量をほぼ正しく予想しました。

5. 終わりに

さて、ようやく周期表が登場したところで今回の話を締めくくりたいと思います。

高校化学の授業みたいになってしまった感がありますが、元素の話でこのあたりの基礎の話をしないわけにもいかないので、ご了承ください。

今回の圧巻は「アボガドロの法則」ですね。

水素や酸素の原子が2個1組でセットとか、今でこそ普通のこととして理解されていますけど、これを思いつくとか半端ないですからね。

ちなみにこの分子仮説が実際に証明されたのはおよそ100年後、アインシュタイン等の新世代の天才の登場を待つことになります。

次回はそのあたりの話と、元素周期表に残されていた謎の解明についての話をしたいと思います。

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