見出し画像

ごきげん雑駁②

本屋B&Bに続き、H.A.Bookstore のオンラインストアでもPDF販売が開始しました!

ごきげんなサバイブを模索する雑誌『ZINEアカミミ』の第二号をリリースしました。特集テーマは「ごきげん」です。

昨年11月の文学フリマ東京で創刊号を発表し、その打ち上げの席ですでにこの特集テーマに決まっていましたが、いまこの状況の中で、自分で自分の「ごきげん」をとっていくためにはどうすればいいのか、という問いはアクチュアルなものになってしまったように思います。

以下の文章は寄稿者の皆さんに共有していた、編集長柿内の「ごきげん」にまつわる雑駁な覚書です。書かれたのは今年の始めごろだったかと思います。

この雑誌を作るときにあった気分は、今の気分と実はそんなに変わってもいないんじゃないかな、といま読み返してすこし思いました。

ーーー
夫婦*そろって愚痴が言えないらしい。

同居人や身近な人たちが愚痴を言う場面に出くわすたびに、自分はひとの愚痴を聴くのが下手だな、と気がつく。どうしてもただ聴くということができない。なにかしらの解決や納得に向けた具体的な議論にもっていこうとしてしまう。その場におけるもっとも解決や納得に近い最適解が「ただ、聴く」ことであるとわかっていてもなおそうしてしまうのだから、根が深い。そして同じような面倒くささを奥さん**も持っていて、だから僕たちは気が合う。僕たちにとって釈然としない理不尽をおしゃべりによってすこしでも解消しようという行為は、そのままなにかしらの解決や納得に向けた具体的な議論であって大丈夫だからだ。しかしこの場合も、冒頭に今回の案件はなにか具体的な施策が打てるわけでもそうした意欲があるわけでもなく、だから「ただ、聴いてもらう」ことがゴールですと前置きした場合でもなお、聴き手側がおせっかいにも解決や納得めがけて張り切ってしまうという困難は相変わらず存在する。しかも話し始めた側も簡単に「建設的な議論」に乗っかっていってしまうのだから余計に困る。それで、この聴けなさを考えるためには、むしろ僕たちの愚痴の言えなさをこそ考えたほうがいいのではないか、と考えた。

僕たち二人の信条は「言語化はえらい」というもので、これはアカミミハウスの話をするときにも骨子となる気分である。明文化されないことを全員が統一の見解のもと察することなんてできない、伝えたいのならきちんと言葉にするべきだ。僕たちはなるべく日々のモヤモヤや苛立ちを言語化することで、そうした嫌な気分や感情を検討対象として外在化し、誰かと共同しながら解消をめざそう、これこそが「ごきげん」の制作および維持管理に必要不可欠な営為なのだ。とこのように考えている。
いくら近しいとはいえ他者でない他人などいない。自分の子供だろうが親だろうが誰かとツーカーでわかりあえることなどない。暗黙知というのがありうるとしたら、それは合意のために言語化し議論し尽くしたあとに遺る個別具体的な成果としてでしかないだろう。このような前提に立つのは、もちろん僕が非常に察しが悪く、独りよがりで、気が利かない人間だからだ。いちいち個別の事象に感覚で応えていくなんてこと、それで正解の近似値を求められるなんてこと、絶対無理です、という開き直りがこうした態度を育んできた。
そしてこの信条を原理的に運用することのあやうさというのは、まさにこの気の利かなさにあるのだと思われる。

愚痴という行為は、言語化しているようでむしろ言葉の外で行われるコミュニケーションであるからこそ、僕は苦手なのかもしれない。愚痴をこぼすひとから求められるのは、そこで語られる事象に対する建設的な議論ではなく、「どこかで不当に扱われた自分が、ここではていねいに受容されている」という安心や納得にほかならないだろうからだ。愚痴は、話をするという言語ゲームを意味しない。そうではなく、ひとと話をするという行為の前提となるもの、その足場が危機に瀕した時、いま一度「自分の言葉は聴いてもらえる」と確認する作業なのだと思う。ここで、いやそれはさぁ……などと得意満面でもっともな解決策などを語りだすのは、愚痴を言わずにはおれないような経験をして「あれ、自分ってちゃんと扱って(聴いて)もらえるのかな」という不安を抱いてしまったひとの不安を一層あおるだけだろう。ほんと、やめときなさい。

こうして書いていけば愚痴の効能というのもわかってくるようだが、じっさいの現場では僕は解決も納得もありえない事象についてわざわざ言語化して認知のゆがみを強化することに百害あって一利なし、寝て忘れたほうがマシ、と思ってしまう質だ。これもこうして書くとわかるのだが前述の「言語化はえらい」という信条からしたら明らかな背理で、いい加減なものだと思う。いや、でも「言語化はえらい」からこそ、下手な言語化は認知のゆがみの強化にしかなりえないという危惧を抱くともいえるし、案外筋が通っているのかもしれない。うん、筋が通っているように思える。「言語化はえらいからこそ、取り扱い注意」と展開していくことができそうだ。あれ、やっぱり僕には愚痴を話すメリットというか、やむにやまれなさというのが全く理解できていないみたいだ。そもそもここでまっ先に「愚痴のメリット」という発想が出てくるあたりすでになにかを誤っている気がする。しかしここで、だから俺は気が利かないのだなどと安易な自己批判に陥ってはナンセンスで、そもそもそういう不毛な自己嫌悪に陥らないためにも「言語化はえらい」というスタンスを作り上げてきたのではなかったか。そもそもこの益体もない文章そのものがある意味愚痴のようなものかもしれないと思えてきた。

*『ZINE アカミミ』編集部の柿内正午と踊るうさぎのこと
**踊るうさぎさんのこと。柿内は配偶者のことを「奥さん」と呼ぶ。『イッセー尾形と永作博美のくらげが眠るまで』をイメージしていただければ大体あってるが、この呼称は『小さなお茶会』から拝借している。

ーーー

おのおのの「ごきげん」との向き合い方を問う雑誌、『ZINEアカミミ 第二号』が本屋B&B およびH.A.Bookstore のオンラインストアにて、販売開始です!

併せて創刊号のデジタルリリースもしました。こちらもぜひに~