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わたしの「設定」メニューをさがす:スキーマ療法体験記

適応障害・うつ状態と診断され休養していた期間で、本を読みながら一人で「スキーマ療法」に取り組んでみた。
取り組んだのはこちらの本だ。本についての詳しい紹介はnoteに他の良記事もあるので省くのだけど、名著といってまちがいない。

ちなみにわたしの属性は中年男性なのだが、その点も含め読んでくださる方の参考になればうれしく思う。

はじめは現在進行形の不調に対するアプローチとしてやってみようと思ったものだったが、その効果はとてもとても大きかった。これまでの人生の棚卸し。さらには生き直し。そういった表現も決して大げさでない。

個人的な感想だが、スキーマ療法は以下のようなつらさを長年抱えている人にすごくフィットするんじゃないかと思っている。

  • 自分が何をしたいのか、求めているのかがわからない

  • 自分が嫌いで、他者が羨ましい

  • 新しい物事に取り掛かるのが怖い

今回はすこしだけ、わたしが何を得てどう変わったのかを書いてみる。

スキーマって?

スキーマ療法という言葉自体が多くの人には耳慣れないものだろう。この療法が取り扱う「スキーマ」とは、「すでに頭の中にある、自分や世界や他者に対する深い思いや価値観のこと」を指す。あまりに深く、大きく、しかもずっと昔から根付いているので、その人にとっては当たり前すぎて疑うべくもない類の考えや、イメージだ。

スキーマの構造(本より内容を引用し作図)。「自動思考」は物事に直面したときに瞬間的・自動的に発生してしまう思考のこと。スキーマはそういった思考を生じさせる、さらに深部にある大きな存在。

スキーマそれ自体は善でも悪でもないし、人は無数のスキーマを持っている。ただし中には何らかの生きづらさをもたらしているスキーマもある。スキーマ療法は、そんなスキーマがなぜ生まれたのかを突き止め、それがもたらす生きづらさを理解し、こころの回復力を高めることが目的としている。

わたしの解釈だが、脳をコンピュータのOSと考えたときに、スキーマは「設定」のメニューにあたるようなものだと思っている。
人はPCやスマホの「設定」の中で
「PCの起動時にこのアプリも自動的に起動する」
とか
「怪しいファイルをダウンロードするときは警告する」
とか
「バッテリー残量が少ないときは省電力モードにする」
とか、そういったことを自分の用途に合わせて決める。
スキーマもおおよそ同じで、わたしのOSであるところの脳が、あらゆる出来事に対応するうえでの基本方針設定のようなものだと捉えている。

スキーマは人が新たな物事に直面し、対応するごとにつくられていく。
厄介なのが、生きる中で何らかのつらい体験に出くわした場合につくられるスキーマだ。特に自己が形成される子ども時代においてつらい体験に遭った場合、傷だらけでぼろぼろになりながらなんとかそれに対応した、その対応のしかたがひとつのスキーマとして自分の中につくられてしまう。

こういったものは特に「早期不適応的スキーマ」と呼ばれる。早期不適応的スキーマはつらい出来事が過ぎ去ったあとも残り、「価値観」「信念」といったような、そう簡単には揺るがない概念として自分を支配し続ける。そしてその支配は大人になっても続く。子どもの頃に起こった特殊で悲劇的な事態に対する環境設定が、大人になってもずっと自分のOSに残っている状態だ。

正体がわかれば対策できる

わたしも長年抱えてきた生きづらさが、本で紹介される代表的な早期不適応的スキーマに合致する部分が多数あったので、なるほどと膝を打った。そしてあることに思いあたり、びっくりした。

あれ、わたしが苦しんで格闘してきた生きづらさ、そもそもわたしに責任なくないか…?

早期不適応的スキーマは環境によってつくられる。環境というのは以下のようなものだ。

  • 誰と一緒にいたか…親、家族、クラスメイト、教師など

  • どういった場所で育ったか

  • どの時代に育ったか

  • どんなルールのもとで育ったか…法律、所属する社会の慣習など

並べてみると、子どもにコントロールできるようなものはほとんどない。

加えて自身がもつ身体的特徴もスキーマの形成には無関係でないが、これに至っては遺伝で決まるのでコントロールの余地は一切ない。

そうなると、自分が抱えてしまった生きづらさ(=早期不適応的スキーマ)を自身の責任だと考えたり、自身の恥だと考えたりすることが見当違いだと気づいた。その生きづらさが形成されたのは「災害のようにどうしようもない」ことだったのだ。この気づきはわたしにとってたいへん大きく、衝撃的だった。

ワークに使った、スキーマサイド氏。

生きづらさを抱える人の中には、自分の存在に劣等感があったり、恥の感覚があるという人も多いだろう。だけど、早期不適応的スキーマによる生きづらさは、「視力が低い」とかに近いのではないかとわたしは思う。

視力は遺伝と環境によって決まる。本人の頑張りでどうこうできるものではない。そして、視力が低いことに劣等感を抱いたり恥ずかしさを感じる人はいない。
「私、視力が低いんです…こんな私は存在していてはいけない」
とか、
「眼鏡しててすみません…ここから去りますから見逃してください」
なんて、誰も言わないし、言うべきではない。自分に合った眼鏡を選べばいい。そして行動の制限なんてせずに行きたい場所に行き、したいことをするべきだ。ちなみにわたしの視力も両目とも0.1だ。

これは「あなたは悪くないから自堕落に過ごしていい」「あなたは悪くないから好き放題やっていい」という考えとは違う。自分を苦しめるものの正体がわかれば、「おっ出たな」と観察する余裕ができるし、対策がとれる。そうなると、これまで混乱して消費していた脳のリソースを「素直にやりたいと思ったこと」に使えるようになる。

わたしに起こった変化

本のワークではこうした早期不適応的スキーマを安全な場所から丁寧に観察し、理解した上で、手放すためのプロセスを実践していく。

先日ちょうどBook1、Book2のすべての過程を終えたのだけど、これによりわたしがすべての足枷を外しハッピーで自由な状態に変身できたかというと、まったくそんなことはない。きっとこれから少なくとも数年は本に掲載されているワークを繰り返していくだろう。

とはいえわたしは、一連のワークにおいて自分がもつ早期不適応的スキーマとそれが形成された原因を突き止めることができた。
そして、ネガティブなモードに陥ったときに、自分の中で何が起こっているのか(活性化しているスキーマはどれで、どんな対処をとろうとしているのか)を観察できるようになってきた。

これらは本当に大きな収穫だ。何がわたしの欲望を封じ込めているのか。何がわたしに恥の感覚やみじめさをもたらしているのか。わたしは何をおそれているのか。そういったものが以前より、随分とよく見える。変な言い方だけど、自分の反応を観察し分析する行為をちょっと楽しんでさえいる。

ようやくわたしをわたしの意志で操縦していくための準備が整ったぞ、という感じだ。

おまけ:ワークの道具選びは重要!

わたしが使った本はワークブックというだけあり、利用者が本に直に文章を書き込むことを想定されていた。だけどワークはPCやスマホでやることを強くお薦めしたい。かなりの文字量を書くことになるので本に用意された記入スペースだと足りなくなる可能性が高いし、手が疲れてしまうからだ。道具の都合でワークを離れてしまうのはもったいない。

わたしはiPad(外付けキーボードあり)とiPhoneを使って、その2台で互いに同期している使い慣れたメモアプリに書くようにした。こうしておくとiPadにがしがし書き込むのをメインのやり方としておきつつ、布団の中や外出先で「今の自分の状態を書き残したい!」と思ったときもすぐにスマホで対応できる。Notionなんかを使ってまとめるのも後で振り返りやすくていいと思う。

すべてのワークをまとめているiPadのメモアプリ画面。iPhoneのメモとも同期している。

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