見出し画像

かつてボスニア難民だった女性は、コロナ禍のNYで何を想うのか。

インディペンデントのウェブマガジンPopulaに、90年代半ばにボスニアから難民としてカナダに移住したライターSejla Rizvicの手記が掲載された。
一度危機や恐怖を生き抜いた人にとって、今回のコロナ禍はどのように感じられるのか。2020年4月9日に発表されたものを日本語訳した。
ライター: Sejla Rizvic
原文: https://popula.com/2020/04/09/refugee-vibes/

過去と決別できる日は来るのか。
危機は、まためぐってきた。

1994年、2歳だった私は家族とともにボスニアの自宅を後にし、難民キャンプに移り住んだ。一年後、カナダに再移住した。カナダに行ける難民は、全体の1%にも満たない。この天文学的な確率には、今でも驚かされる。

カナダでの新生活では、戦争で散った暮らしを拾い集める日々だった。移住こそできたが、いつ、その幸運は尽きるのか。再び、人生の絶え間ない荒波に立ち向かうのだろうか。一度危機を乗り越えた者の頭には、決して離れることのない影が横たわるものだ。

ニューヨークで最初のCovid-19の発症例が報告される数週間前、夫とボスニア行きの航空券を購入した。ミュンヘン経由ザグレブ行き。ボスニアの家族を訪問する気でいた。ザグレブからはレンタカーで、生まれてから最初の数年間を過ごした村を訪ねるつもりだった。

戦争そのものや、その余波に関して、私は何も覚えていない。心のなかには黒い壁がある。そこには誰かに読み聞かせてもらった絵本や、家族の写真が浮かび、ところどころに「当時」を伝えるニュース映像が散在している。

本能的な恐怖を感じるようになったのは、起きたすべてが「過去」となってからだった。思春期、そして成人期にかけて、私のこころは乱れた。つきとめようにも原因もなく、ただ行き場のない不安を抱えていた。

最後にボスニアに赴いたのは8年前。その頃の私は、まだ青年期の奇妙な感覚を引きずっていた。車を西に走らせると、スロベニア、クロアチアを過ぎる。道端の黄色い標識にある地名が見えた。途端に、胃のあたりがつかえたように重くなった。「トゥランジ」は、私たちが1994年から一年滞在した難民キャンプのある町だ。それまで家族の話や、間接的な記憶の奥底にあったものが、だしぬけに標識として飛びこんできた。心がざわめいた。

二度目のボスニア行きは、コロナ騒動でたち消えた。旅程には難民として滞在していたもう一つの町も入れていた。プーラという観光名所で、トゥランジと違い、街の中心部には大きなコロシアムやローマの遺跡がある。観光客としての訪問は、私にとって、ある種の決別を意味していた。そう遠くない将来に、きちんと過去をおしまいにできる日はくるのだろうか。来るかもしれない。わからない。
私はかつて、自分の国を去ることを強いられた。再び、自分ではどうにも負えない力が働いている。戻ることもできないとは皮肉すぎるし、できすぎている。おかえりなさい。また、危機はめぐってきた。

私はずっと「恐怖」の波間を泳いでいる。
いま、みんなが水に落ちて、もがき始めたのが見える。


Covid-19 関連の報道が過熱するなかで、ひっそりと気づいたことがある。世界規模での激変、緊急対策を要する社会の大変革。私は、それを無意識のうちに待っていたのかもしれない。塵よりも小さなものが、混乱のなかで全世界をひっくり返す。私にとっては、どこか論理的かつ自然に感じられるぐらいだ。

不安が世論を覆うのを見るにつけ、それがヒステリックな様相を呈していても、妙に心が和むのを感じる。例えるなら、「恐怖」というプールの中で、何年も水を蹴っている人の気分だ。私はすでに何周も泳いでいる。そして、他の人たちはいま水に落ちたところだ。彼らは激しく水しぶきをあげながら、もがいている。

アパートにこもるのは心地いい。何日もうっすらと漂ってくる漂白剤のにおいを嗅いでいる。自分の家でみつけられるものは何であれ、硬い表面はすべて消毒した。いままで試したこともない頻度で手を洗っている。

これは、私自身がひとり潔癖症だから行う行為ではない。いまや公衆衛生上の命令ですべての人が従っているのだ。人前で顔をさわること、電灯のスイッチ、清潔さ、目覚めたときの喉の違和感などを気にするのも、私だけではない。友人、知人、知らない人まで、皆がそれに気を取られている。この不安は、私にとっては旧知のものだ。

なにも友人たちが不安げにしているのを喜ぶわけではない。しかし恐怖を共有することで、彼らとつながれるのが嬉しい。恐怖はずっと私につきまとってきたから、いま一緒に誰かがいてくれるのが、心地よい。グループチャットは盛り上がり、一人ひとりが今日の気分やあれこれを共有している。親や友だちや、愛する人と、いつもより頻繁に長く話すようになったと、みんな口々にいう。恐ろしさと心温まる感覚は入り混じり、私たちは今できることにすがる。そんなことを、一体いつまでできるのだろうか。

最近、母が電話をくれた。食料品を買いだめしろと言う。ベゲタ(ボスニアで一般的な調味料)を6ポンドと、小麦粉を100キロ買ったらしい。もともと家庭菜園でハーブや野菜を育て、塩と混ぜてお手製のベゲタを作っていた人だ。当時は戦争中で、小麦粉は高すぎて手に入りにくかった。「もう二度とあんな苦労をしてまでベゲタを作りたくないし、できない」と母は嘆いた。安心させたくて、「これは戦争とはちがう。きっとだいじょうぶだよ。」と母に言った。たぶん小麦粉なら、まだ手に入るよ。

コロナが流行し始めた頃は、まだニューヨークを出て、飛行機とレンタカーでカナダの両親の元へ帰ろうかという考えが頭をかすめたものだ。しかし、今はどこかに滞在することよりも、移動そのものに不安を感じざるを得ない。いままでは、危機を逃げおおせてきた自分自身に、腹立たしさを感じるたびに「この難民オーラが見えるかな」と、友人にジョークを言っていた。そのときは、一つの場所でただじっとしていたかったんだろう。

わずか数週間で、ニューヨークは北米におけるアウトブレイクの中心地となった。警察や救急車の不気味なサイレンが外から聞こえてくる。先週よりも状況が悪化するだろうという考えが、頭にこびりついて離れない。

今この瞬間も、いつかは単なる思い出になるかもしれない。でもそれも、まだわからない。

写真提供
Emily Leshner




応援していただくと、そのお金でコーヒー、豆腐を買えます。