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死ぬことと、生きること

 数日前、あたしはパートナーと神戸の中華料理屋さんにいて、海鮮焼きそばを食べていた。夜は始まったばかりだったので、まだあたりはうっすら明るかった。

 油淋鶏も食べたいね、と何でもないような会話をしていたとき、彼のスマホが光った。「やばい」小さく彼がうめいた。

「おばあちゃんが亡くなった」

 あたしが何か言う暇もなく、彼は立ち上がって身支度し始めた。

「ちょっと病院に行かなきゃ」

 あとちょっとで食べ終わるところなのに。今から急いだって、着く時間なんてほとんど変わらないのに。

「ごめん、もう行くね」

 でもそんなこと言えない。あたしは彼の手を握って、一言「大丈夫?」と聞いた。彼のおばあちゃんは、長い間入院していた。意識は一度も戻らなかった。そして、あたしのパートナーがおばあちゃんっ子だったことを、あたしは知っている。

「たぶん」

 彼は、あたしの「大丈夫?」が彼の悲しみに向けた言葉だということを分かっていたのだろうか。

 一人とり残された中華料理屋さんの広いテーブルについたまま、あたしはあたしの信じる「死」について考えた。

 あたしの経験した死は2つだけ。あたしの祖母と、飼っていたうさぎのアヴィ。そして、よく想像するのは、あたし自身の死だ。

 死は、とても自由だ。生きていくということは肉体に従属することだけど、死はその解放だ。肉体も病も、距離も、すべて無意味になる。天国は遠い場所だなんて、だれが言ったのだろう。

 アヴィはきっと、生きていたころよりも、ずっとあたしの近くで遊んでいるだろうし、生きていたころは疎遠になってしまった祖母だって、たぶん今は一つ屋根の下で寝ているはずだ。

 それは、あたしのパートナーに理解できないことかもしれない。でも彼が悲しみに囚われているなら、あたしはきっと言うだろう。

「生きていた頃よりも、ずっと近くにいるんだから、何も悲しいことはないのよ、あたしが死ぬときにも、あなたがまだそばにいたら、そう思ってね」

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