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Part5 : 【決意のきっかけ】2年前に書いた「両親をそれぞれ失って」加筆修正版

2年前に私が書いていた記事を再編集してアップしていくシリーズ。

父と娘、親子の闘いが始まる、今から見ればもう9年も前に遡る話なわけですが、2018年当時の私の思いと合わせながら、感じていたことを追っていきます。

このあたりの記事を書いていた私は、冒頭にこんなことを書いていました。

ここからは、いまより6年と少し前のお話です。
実のところ、若干苦しみながら書いております。

たぶん、私の音楽家としての苦しい時期と重なっているからだと思います。そして、人として美しくない姿もあると思いますし、まだ、父のことも悩みながら書いておりますが、どうか長い目で見ていただければ、幸いです。

当時の私からすれば、父が亡くなって、まだ数ヶ月しか経っていなかった時に書いていたものでしたので、書きながら気持ちを整頓していたところもあったのだと推察します。


今、思えば無理もありませんが、6年間の父との暮らしは簡単ではありませんでした。

私が日本に戻ってまもない頃、18歳からイタリアに渡ってしまっていたが故に、日本社会のあり方など何もわからず、なおかつ放心状態の父といてましたから、本来人生の先輩である父には尋ねようにも尋ねられず、そのような状態でしたので、落ち込む父を見るどころか、自分のことだけで手いっぱいになり得る状態で。

冷静に考えれば20代初めの若造が一人で背負えるような問題であるわけがなかったのでしょう。けれど、誰にどのように頼っていいのかわからなかったというのも本音で、「大人としてちゃんと振る舞ってがんばらないと」という責任感に突き動かされていた記憶がうっすらとあります。あの、父と二人っきりになりがちだった最初の3年間が、最も難しかったなと今では思います。

2018年の私はこう振り返っています。

母のことがあったその後、姉はイタリア クレモナに戻り、
私は留学していた学校を一年休学する形で日本に戻りました。
当時の私の選択には、正直、
周りから反対の意見もありました。
「年老いた父親の世話なんかする必要がない、
 あなたの将来を考えるべきだ。
 イタリアへ戻るべきだ。」
と、ある方からそんなことも。
似たような感じで一定数からはそう言われました。
それもそうでしょうね。。。
子が親の世話を必ずしなければならない
という義務も必ずあるわけではありませんし
ヴァイオリニストとして活躍をするのなら、
今は勉強の時で、
せっかくの機会だから、
イタリアに戻るべき
というのはごくごく、普通の感覚だと思います。
けれど、当時の私なりに考えていたことがありました。
それは、
日本とイタリアをつなぐ人、
誰かがその役割を担うべきだと。
母がいない以上、
それは将来的にいつか、誰かがしなければ、と。
姉は、音楽学校を卒業して、
まさにこれから音楽活動を始めていく、という時で
それに対して、私はまだ学校にただ在籍しているだけ
いくらでも取り返しがきく、そう踏みました。
そして何より、
父親がもう直ぐ80歳を迎える中で
近くに誰も世話をする人がいない
それが意味すること。
いつか限界がくるのも
見えたことでした。
もちろん、以前書いた通り、
この時点での私の父へのイメージはまだ
「恐ろしい、近づきたくもない存在」です。
けれど、謎の使命感といいましょうか
なんとなく父の最後まで見届けなければ
この感情に終止符を
打てないような気がしてなりませんでした。

母から頼まれた仕事、姉ではなく私に頼んできた、あの時点で私の心は決まっていたも同然でしたが、だからといって、人生を犠牲にしているとは微塵も思っていませんでした。イタリアに行くことで開かれた道はあるかもしれませんし、進言してくれた人たちなりに思いがあったのもわかっておりました。ですが、日本に残る選択をするまでに、一つ気づかされていたことがあったんです。イタリアで過ごしていた時を通して、母との対話や体験を通してそのことは気づかされたものです。

それは、自分自身が心を開いていなければ、新しいものをキャッチする受け皿を持っていなければ、日本だろうが海外だろうが、どこに行っても何も学び取ることはできないし、吸収することはできないということ。

逆に、貪欲に学ぼうという姿勢、他者から学ぼうという気持ちをずっと持ち続けることができるのであれば=新たな情報をキャッチできる受け皿を自分の中に用意できるのであれば、たとえどんな場所にいようが、必ず成長をし続けることはできると。

仮にイタリアにいたとしても心を閉じてしまうことで、成長する機会を自ら奪っていた、失敗を恐れるあまり、挑むことから逃げてしまっている自分にハッと気づいたんです。きっかけは、母が最後の時まで諦めずに病気に、そして音楽に挑み続け、その生き様を見させてもらったから、それと比べ自分は何をしているんだろう、と考えるようになったから。

また、心が閉じてしまった原因も、併せて考えました。
幼少のころの、ヴァイオリンのレッスンで怒られ、ビクビクしながら横山家内で過ごしていた時代。父の顔色を伺うようにして生きていた、あの体験、あれこそが新しい何かに飛び込む勇気を奪う原因になっていたのではないか、と。

失敗を恐れ、身動きが取れなくなり、その弱点を隠すように代わりにひねくれ、斜に構えていくようになった自分。

でも、本当はずっと、「助けて」と声を上げたかったのだと思います。


残念ながら22歳の頃の私には、まだそこまで気付く力はありませんでしたが、少なくとも私の心の中で燻り続けている問題は、きっと父に立ち向かうことで解決に至るのかもしれない、そのように考えるようになっていました。

きっと父との暮らしでは、忍耐強く在らなけばならないだろう、目に見えていたことでしたし、それこそ逃げ出したくなるような気持ちにもかられそうではありましたが、限られた選択肢の中で、家族にとって最小限のダメージで前へ進むために今何をするのが最良か。そう考えた結果として、私は姉の申し出も断り、迷うことなく日本に残ることを選んだわけです。

しかし、決意したものの、その後、その気持ちは何度も揺らぐことになりました。

それこそが私が「闘い」だと思った一つの理由でもありますが、

次回に続きます。


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