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Part9 : 【燃え尽き症候群】2年前に書いた「両親をそれぞれ失って」加筆修正版

1月もきづけば2週間過ぎようとしています。今年は例年と違いあっという間に過ぎて行く毎日で、気づけば2月となっていそうな予感しかしませんが…明日からようやく姉 令奈の2週間の待機期間も今日で終わり。
これからの2週間に対して、いろいろな期待を抱えつつ、本日もシリーズの更新をさせていただきます。


今回は日本に帰国してからの1年間の出来事を振り返ります。
2014年10月に開催したデビューリサイタルから2015年にかけてのお話をメインに書いていきたいと思います。
まずは、2年前の記事の引用から、どうぞ。

イタリアで結果を出して、無事帰国した私
帰ってから早速次の動きに出ました。
それは、
フェニックスホールでのデビューリサイタルを
イタリア人ピアニストを招いて開催する、という演奏企画。
私の姉もイタリア人ピアニストと共に
日本で記念リサイタルをしたことがありまして
それを踏襲した形で行いたいと思ったので企画しました。

少し補足。

「日本で記念リサイタル」とある姉の上記の演奏が、今年2021年1月21日に演奏予定である箕面メイプルホール大ホールで行われたものでして。姉はこの時から実に10年ぶりに同ホールで演奏します、ちょっと感慨深い...

姉のリサイタル時のピアニストは、皆さんご存知のディエゴ・マッカニョーラ。トリオカノンのメンバーの一人であり、姉が現在公私共にするパートナーです↓

2011年の姉のリサイタルは、当時母が中心となってで企画がされたものでした。その時点ですでに母は決して健康状態がよくはなかったのですが、この姉のリサイタルの他に母は、姉とディエゴ、当時一緒に活動していたその他のメンバーと共に「室内楽」のコンサートも企画・開催していました。母が大好きだった作曲家・ブラームスが作曲したピアノ五重奏曲を中心としたコンサートを当時行っていたことを話として私は聞いておりました。

リサイタル+室内楽のコンサートという組み合わせ、母が企画していたこと、そしてそのコンサートに姉が参加していた、ということから刺激を受け、自身のリサイタルをするのを決めた際、室内楽の企画も同時に開催、という流れを私も踏襲することにしました。

少々前後しましたが、デビューリサイタルに向けて、の話にもどります。

私自身が決めていた一つ一つの目標、その背景には姉が実現してきたことと関係がありました。卒業試験や、コンクール、デビューリサイタル、それらをクリアして行った姉の背をみていたので、私が置かれた状況は違うものではあるものの、その流れを汲むようにして活動を広げるということは、プロのヴァイオリニストになっていくための当時の私にとって「必須項目」のように考えておりました。

姉と条件が違ったのは、リサイタルやコンサートのチケットは、親の協力を得ずに、自分の力で売っていく努力がいるという点でした。また、知り合いの音楽家、特に同世代の音楽家とのつながりは、日本の音楽学校や音楽大学の出身ではないことも災いして、当時はほぼ皆無でした。

ですので先ほど書いた室内楽コンサートの企画なども含め、メンバー集めの点で少々苦労をした覚えがあります。本当に必死に動いていたのだと思います。

2年前の記事の引用です。

母の昔からご縁のある方から、
協力があってこそ成り立ったものでしたが
その当時は今と違い、
現在のような音楽仲間が私のまわりにはそこまでおらず
音大に行かず、直接海外留学をして
それから帰ってきた人にとっての
デメリットを肌で感じる時代でもありました。
(中略)
1年かけて死に物狂いで動いて、チケットをさばき
イタリア人ピアニストのお世話も兼ねて
実質マネージメントのようなものもこなしつつ
デビューリサイタルの日に至った時は
300人を超えるお客様が来られることになりました。
(中略)
父はこの時
めちゃめちゃ感激をしていました。
まさか末娘がここまで出来るようになるとは、と
なんども言っていたような記憶があります。

この時は思い返せば、一人で頑張りすぎていた、人を頼る以前に一人で動く方がいっそ楽だと、私は考えていたように思います。その結果が、続きです。

ただ、実は後日談があります。
今振り返ると、精神的な限界が来て
ガタが出た年だったなと。
2015年、最も自分の体に異変を感じた年でした。
まず最初の異変が
4月頃に、美容院に訪れた時
美容師さんによって
「円形脱毛症」が発見されました。
その時ですでに10円くらいのハゲた箇所が3箇所あり
毎回髪の毛を洗うたびに
手のひらにたくさんの髪の毛がついてることに
ため息をつく日々で。
そして夏頃に
アメリカへ二週間マスターコース受けに行くその手前で
帯状疱疹を起こし
特効薬は使いましたが時すでに遅しで
背中に激痛を抱えながら
演奏会をこなしました。
あげくにその後のアメリカ滞在中
不運が重なった結果ではありましたが
ピーナッツによるアナフィラキシーショックを起こし
意識を失うという事態にも陥りました。
幸い、気道は確保されていましたが
もし胃から食べたものが逆流していたら
あの時、死んでいたかもしれない
2015年は悪夢のような年であったなと振り返ります。


体調を崩したことで思うのは「オーバーワークの連続では継続したいものも続けられない」ということ。体調不良が次々と起きた時は「神がもし私をみているのだとしたら、どうして苦しいことしか与えないんだろう。がんばっているのに、まだ頑張り足りないということなの?不条理や...」と思ったものです。今、普通に考えれば体からのSOSだったんだよね、と、冷静に思えるんですが...笑

「がんばらなくていいんだよ」と、あの時の私に今の私からは伝えたいです。

とはいえ、
なぜこれだけガタが出たのか
あの当時はなかなか意識できませんでした。
でも今ならわかります。
あれは一種の「燃え尽き症候群」だったと。
母が亡くなり
父を見守る決意をし
なんとしてでも
「ヴァイオリニスト」として
独り立ちしてやるんだ
(中略)
一定の成果をあげて
日本に帰って
姉と同じように
母が願ったように
リサイタルも必ず成功させてやると。
(中略)
ところが、自分を奮い立たせる動機が
意志を継いでやるべき、と決めた一つのプロセスが
終わってしまったわけです。
私はここから一体どこに行くんだろうと
自分が演奏家としてなにができるんだろう、と
精神的に路頭に迷ってしまいました。
それが体のガタがきた、最大の要因だったと思います。
精神的に参っている時に父と会話したり
病院へ付き添いもしたりと
その中で自分の仕事や練習もやっていって
そんな毎日に希望を
見出せなくなりかけていたのかもしれません。
こんなに頑張っているのに
どうして頑張れば頑張るほど
次々と辛い目にあうの
(中略)
明るい未来を
この時はなかなか想像しにくくなっていたように思います。
そんなこんなで2015年は若干迷走気味な年でした。


今でこそ、「元気に喋って、ばりばり弾く横山亜美さん」なイメージを皆さん持たれているかもしれませんが、こんな私でも紆余曲折あったんです。

頑張りすぎている私のような仲間がいるのなら、その人に伝えたいです。「ちゃんと休もうね」と。それを痛感した私にとっての2015年でありました。


次回、父との関係、自分を取り巻く環境へ新しい出会いが、次なる変化が起こっていくお話へ。どうぞお楽しみに。


ラストに宣伝♪ 1月25日月曜日に横山姉妹によるオンライン配信コンサートを開催します。

こちらは始めはリアルタイムに行い、そのあとは1週間全編をいつでもご覧いただけるようになります。横山姉妹でたっぷりと演奏を、自宅で、移動中にも、どこでも好きなところからお聞きいただけます。ご視聴チケットは2,000円。横山令奈を応援している方へもそうですが、わちゃわちゃと悩んで動いてきた妹の演奏も聞いてみたいな、と思ってくださった方がおられましたら、ぜひ聞いて欲しいです❤️

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