Part4 : 【父と娘を繋ぐ存在】2年前に書いた「両親をそれぞれ失って」加筆修正版
2年前に私が書いていた記事を再編集してアップしていくシリーズ。
今日は私が10代後半から20代初めだったころの時代の話。
父に対して「なんとなく距離を開けていたい存在」という心理的距離感を持っていた当時の話です。
あまりにも厳しい教育や指導、正論を語るかと思いきや、突然理不尽なことを要求してくるそんな父への不信感、恐れ、不安。
自分の中で消化できない感情が渦巻いたまま、そのままイタリアへ渡ったことにより、さらに父との交流の機会は減りました。それは私の姉も同様だったようで、娘側から父に連絡を「入れなければならない」という時は、心の中でうっすらと緊張感を感じるものがありました。
広がる父と娘の距離。世代の格差というのもなおさら拍車をかけることになっていたのかもしれません。
そんな娘たちと父をつなげるクッションのような役割を果たしていた重要な存在、それが私たちの母 清水玲子でした。
晩御飯抜きの目にあった時、子供部屋にそっと差し入れをしてくれたのも母でした。お手製おかか入りおにぎりを2個、お茶と一緒にもらった光景を覚えてます。(父に怒られて落ち込んでいるところへの、おにぎりは何か神々しくでも見えたんでしょうか。やたらと覚えてます。笑)
母は、もともと父の元弟子ということもあり、父の激しい部分をもちろん知る人であり、そして良き理解者で在ろうと努力を重ねてきた人でした。
母の性格は良い意味で大雑把で、おおらかで、イタリアローマに5年留学した経験もあるからなのか、思考はヨーロッパ的で、誰かが何か間違った時は優しく諭すようにして、導くような人で。長い目で見守ってくれる、そんな人でした。
横山家において、不可欠な存在と言いますか、母がいたからこそ、家族関係は成り立っていたのではないかと思います。
ですから、姉、そして私がイタリア留学をし旅立ってからも、母が電話をしてくる際、「お父さんも近くにいるから変わるね〜」と明るい声で、途中父に代わり短時間でも父娘の話す時間を設けてくれたり、電話越しに「お父さん今ね〜」と父の様子を伝えてくれたりと。
というのも、父は自ら電話はまずしない人だったので、だからこそ父と娘、互いを繋ぐ心遣いを母はずっとしてくれ続けていたのかと思いますが…
母がいたから、留学中であっても父と娘同士でなんとかコミュニケーションが成り立っていた、私個人としてはそう思っています。
しかし、そのような関係も長くは続きませんでした。
私たち横山家が大きく動き、変わっていくことになったきっかけ。
「子宮頸癌」という宣告を母が受けました。
病気を患っていることを、2009年5月、電話越しに姉と一緒のいつものクレモナのカフェでコーヒーを飲んでいる時に、知りました。
この時私は19歳。
母からその事実を告げられた時、意外に母は明るく伝えてきまして「実はね〜、お母さんガンになっちゃってね〜」とまぁ、そんな軽いノリで。
そんなふうに言われたらこちらも
「ガーーーンッ」
と返してしまい…今少し悔いてます...昭和感…笑
↑闘病中、阪大病院内コンサートで楽しそうに演奏している母
ただ、そんなふうに明るく伝えられようが、こちらには全く現実味が伴いませんでした。
「お母さんが病気?ガン?」
「お母さんのことだからきっとだいじょうぶだよね」
そんなふうに信じようとしてました。
2018年当時のアメブロで、母が病気になった時にどう感じていたか、私はこのように書いています。
横山家の誰もが
「まさか母がガンでどうにかなることはないだろう」と
そのくらいまだ軽く思っていました。
いや、思いたかった、と
書いた方が正しいかもしれません。
横山家で一番の健康印、
ハーフマラソンだって完走したこともあるし
バイタリティーあふれる母でした。
まさかその彼女が
ガンで、倒れるなんて
ありえないことだと思っていました。
しかし、その考えは3年も経たずに裏切られることとなります。
2012年の冬、1月28日。
母はこの世を去りました。享年55歳。
私は22歳、姉は24歳、まだまだこれからが駆け出し。
そして、父は当時79歳、すでに後期高齢者。
残された家族は、まるで道端に投げ出されてしまったような虚無感と、喪失感に襲われ、目の前にある現実を受け入れることは、本当に困難でした。
母がいないのに、お葬式などの手続きで困った時につい「お母さんに聞こうかな」と、思ってしまったのを覚えています。
この当時のことを2年前、私はこのように書いています。
当時の一家の大黒柱のような存在であった母が、横山家にとってあってはならないことが起きてしまったような、そんな心境でした。
そして、私や姉に対して、父親が本来サポートをするような局面で父親をサポートしなければならない状況でした。なぜかというと生前の母が、役所関係や銀行などの手続きなと父の身の回りのことをすべて彼女が担っていたので母を失う、というのは、ありとあらゆる意味で一家にとって打撃だったのです。家のどこにどんなお金があるのかそれすらもわからない状況でした。
お金があると思っている口座からお金を引き出した時、通帳にマイナス○十万円と記帳されていてものすごい衝撃を受けたことを今でも昨日の出来事のように思い出せます。笑
当時の混乱していた様子が伺えます。
今この年齢になって振り返るからこそ気付いたことがあります。それは、私たち横山家は「歪な関係」だった、という点です。
父が若くて元気な頃、レッスン屋としてバリバリ働いていた頃はまた違ったのだと思うのですが、父が歳を取った分、その負荷の全てを母が一身で背負うことになり、それは決して軽いものではなかっただろうに、娘たちには気丈に振る舞い、心中の苦しみは一切見せず。
その母の献身的な行動の結果、家族の誰もが「母は大丈夫」という、思い込みをしてしまっていた。
母だって人間だった、ということを、彼女の最後をもってしてようやく私は気付いたわけです。なんとも皮肉な話ですが...
こうして、父と、姉と私と、三人の家族が残されました。
今後どのような人生の選択をするのか、姉と話をしました。
姉は「私が日本に残ってええよ、亜美はまだ学校卒業してないんだから」とイタリア留学を続けることを進言してくれましたが
妹として状況を考え、また、生前の旅立つ3日前の母に一つ日本の仕事を頼まれたことも背中を押してくれまして
「私が日本に残るよ、学校は休学してからでも復帰できるし、それよりも令奈がイタリアで活動する方が大事だよ」
と、決意を伝えました。
ヴァイオリン教室を継ぐために、と、世の中では認識されているかもしれませんが、それだけではありませんでした。
私がこの時思っていた日本に戻ると決めた大きな理由は2点。
「母のあらゆる仕事の穴埋め役」「父を含め日本での縁をつなげる役」
このために、私は日本に残ることを選び、そして姉 横山令奈はイタリアへ戻るという決断をしたんです。
さて、次回よりいよいよ日本での父と娘、親子の闘いが始まります。
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