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Part6 : 【どうしてお父さんじゃなかったの】2年前に書いた「両親をそれぞれ失って」加筆修正版

2年前に私が書いていた記事を再編集してアップしていくシリーズ。

2012年の春先、日本に帰ることを決意をし、父の最後を見届けるまでは日本を離れない、そのように決意したところからその後、今日のお話は始まります。

父への感覚はまだ複雑であるのに変わりはありませんでしたが、「母のため、家族のため」と自らを奮い立たせ、もやもやを抱えながらも必死に行動へ移していく、そんな時代です。

※今日は、母が旅立った後の、ある意味リアルな話が出てきますので、心構えを持ってお読みいただければ幸いです。死という話題にデリケートな方はご遠慮いただいた方が良いかもしれません。自己判断のもと、よろしければこのままスクロールしてお読みください。







2年前の私は、父との生活での中の出来事から、こんなふうに書いていました。

ですが、さぁ大変です。
帰った途端に、予想していたことが始まりました。
父からの細かい連絡です。
「なんで電話してこない」
「こんな時間まで何をやっていたんだ」
ちょっと間隔があくと父から電話がやってきました。
そして1日に1回は顔を見せないと不機嫌になりました。
けれど、会えば会ったらで、生前の母の話ばかりで、
会話、というよりかは一方的に
父の独り言のような話に付き合うという形です。

私も心穏やかに聞けるだけの
お釈迦様のような心があればよかったんですが
この時23歳。
母を失ってまだ直後です。
正直無理でした。
何より、父の記憶の中にある、
母の美化した話は聞くに耐えがたいものでした。


このくらいにしか書けなかった2年前、そして9年前の私のことを振り返って、今回はしっかりと加筆します。


過去の記憶に閉じこもっていく父と、前に進もうと足掻く私。その両者の思いの乖離は激しいものがあったように思います。

少しでも明るく楽しい未来に向く話を私が伝えようとしても、父の、過去の分厚い尚且つ美化された記憶にはじきかえされ、その代わりあとはただ、父の話を一方的に聞くしかない防戦状態、そんな「会話」が日常茶飯事だった父と私。

「どうして、こんな目に合わなければならないの」
「どうして、お母さんは先に行ってしまったの」
「どうして、お父さんじゃなかったの」

そんなことを思ってしまう自分。
挙句のストレスか、過去の記憶に閉じこもろうとする父に対し苛立ちを覚え、罵詈雑言が飛び出しかけることもありました。いやダメだと、言ってしまったら確実に後悔すると、自分を押しとどめて。何度喉から出そうになったか、そしてそんな自分に嫌悪感を覚える、その繰り返しでした。

1979年製作「エイリアン」という映画があります。胸を食い破ってエイリアンが登場するシーン、あれを連想させるような胸の痛みを、この時期何度も感じることがありました。精神的な感覚からなのに、こんな風に痛みを人間は感じるものなんだ、と驚いたものです。

どうして父に対してここまで激しい感情を持つようになったのか。
これまでのパートでご紹介した通り、私が幼かった時代の父との関係性、父に対する不信感、そういうものが確実に影響を与えているのだと思いますが、そんなモヤモヤを抱える自分をさらに追い込むことになったのは、そもそもの話ではありますが…「母の死」だったと思うんですね。

少し話を遡ることになります。
実は母が亡くなってからたった10日後に、生前母より頼まれた仕事が一つ控えておりました。また、母の名前が既に出ていた出演依頼などの仕事も、2012年3月あたりまではまだいくつもありましたので、母の代役として一つ一つのお仕事をこなしつつ、合間を縫って市役所やあちこちへと訪れることも、並行して行っていました。
姉がイタリアに帰るまでは一緒に手伝ってもらっていましたが、帰った後は、母に関連する手続きは私が中心となって動いていくことに。

この時、心が「ちくっちくっ」と音を立てて傷つくのが聞こえてきそうな瞬間があったのを覚えています。
というのも、向けられた現実、すなわち「母の死」の現実に、何度も直面することがあったからです。

雪の降るあの日に、目の前で息を引き取った母。
お通夜やお葬式、全ての過程を経て母の死をしかと受け止めたはず、で、あるのにも関わらず、時が過ぎれば過ぎるほど、何度も「ちくっ」とくる体験がありました。

例えば「契約者」である母の名義を変える、または、そのような契約を終了させる手続き。そのたびに、謄本が必要なことが常でしたので、そのために市役所へ取りにいく必要がありました。謄本には、「除籍」という二文字が載った母の名前があり、それを見ないというわけにはいきませんし、その他には手続き上、母の「死亡診断書」のコピーがなければならないこともありました。

そこには母の死因も書かれていますし、死亡時刻も書かれています。嫌でも、最後のことを思い出すことになります。

書類上の出来事とはいえ、何度も母の死を追体験するような感覚になってしまっていました。それが弱った自分の心に追い討ちをかけていたようです。

「ちくっ」とくる回数が募ったために、市役所を出た瞬間泣き崩れそうになったことも何度もありました。自分から感情が抜け出てくれればどんなに楽になるのだろうとも思いながら、歯を食いしばって涙を堪え、家では努めて明るく振舞うようにしていたと思います。

そのおかげか、そのせいといった方が良いでしょうか、次第にその痛みに慣れていき、そのうち無感情になることを覚え、ただ淡々と手続きを進めていけるようになったのを、当時のことをおぼろげながら記憶しています。

父の話に戻ります。
一例の話ですが、私が出先で、母の友人や仕事先での新しい出会いなどがあったときや、何かしらの収穫があれば、父に「今日はこんなことがあったよ、成果があったよ」となるだけ楽しく報告しようと努めておりました。しかし、それを聞いた父は開口一番に「あぁ、これを玲子が聞いていたらなぁ…」と、母の話にすぐ結びつけてしまうのでした。



ひたすら家に閉じこもる父は、過去の記憶に逃げ込み、美化した思い出を私に語るのに対し、私は私で社会で立ち向かい、その中でいく先先で母の死をつきつけられる日々。手続きや、母の知り合い、仕事先、どこに行っても母の話が出ます。その度に胸が締め付けられそうになりながら、笑顔を持ってして、決して涙は見せぬように応対をし。必死に決壊させぬよう自分を保たせながら、帰宅してからも父に笑顔を向けてただ話を聞く。とてもとても、難しいものでした。一時は自分を「人形」のように思う努力もしました。そのくらいに心を殺すことをしなければ日々時間を過ごすことすら、私自身厳しいものがあったのかなと思います。

父は父で、最愛の奥さんを亡くしたことによる喪失感でいっぱいでした。目の前の現実を受け止めるには80歳という老いた身で元々無理があった、今なら冷静に想像できますし、もう少し労ることもできたのかもしれません。

ただ、両者ともにいっぱいいっぱいだった故に、相手をお互い思いやるどころではなかった、それもあって互いに不満が募り、うまく表現することもできなかった。「最初の3年間が難しかった」というのは、このような背景も重なっていたからでした。

2年前に記事を書いた時は、思いは心の中で巡ってはいたものの、ここまでのことを表に出して書く力はなく、もちろん気力もありませんでした。

ようやく胸の支えが取れたような、少々不思議な気持ちで書いています。

こうして改めて振り返ってみて感じるのは、やっぱり23歳前後の人間がどうにかできる話じゃなかったなということ(笑)
オーバーな表現かもしれませんが、何度か自分が気が狂ってしまうんじゃないかと思いました。そのくらいに精神的に負荷がかかっていたのは確かです。

あの当時の自分を支える源になっていたのは、「亡くなった母が安心してくれるような状況を作る」という大義名分を持つことと、結局は、一度は逃げ出そうとしていたヴァイオリン、「音楽の存在があったから」耐え切れることができたということ。音楽がなかったら、とっくの昔に自分は壊れてしまっていたのではないかと、今でも思っています。

そして、私の父も亡くなる最後の日までヴァイオリンを弾き続けることをやめませんでした。
「音楽」の存在が、娘と同様、父の心を日々救うことに繋がっていました。

そういう意味では、家族それぞれ、父も母も、姉も私も、置かれた立場は違えども、全員「音楽」があるからこそ、それぞれ救われ、前に進むことができたのだと思います。

次回は、さらに過去の記事を追っていきます。父との最初の3年間の生活の中での、一つの思い出話に続きます。

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