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電話今昔ものがたり

「電話屋」さん

昭和のある時期まで「電話屋」という職業があった事をご存知だろうか。電話屋、とはその名のとおり電話を〝売る〟職業である。と言っても店先に電話機を並べていた訳ではない。

電話の加入者番号、つまり電話番号の権利譲渡を生業なりわいとしていた職業である。電信電話公社、現在のNTTの前身である電電公社が設立されたのが、昭和27年8月1日。それまでは電話を引きたい(当時は電話をつけることを〝電話を引く〟といった)人は、電話屋さんから電話番号を買っていた。

私の父はその「電話屋」さんだったのだ。正式には「電話取引業」なのだが、「青果販売業」を「八百屋」というように、一般には「電話屋」で通っていた。

電話屋の商品は売りに出された電話番号。特に縁起の良い「8」がつく番号や、語呂ごろ合わせの良い番号などは、商店などに人気があったようだ。逆に「4」は敬遠される。理由はご想像通り。良い、とされる電話番号は高く売れた。

父がこの仕事をしていたのは太平洋戦争を挟んだ期間で約20年ほどだったろうか。終戦直後には持ち主が解らなくなった電話番号(「焼け電話」と言われていた)が多く市場に出ていたようだ。

比較的高齢で応召おうしょうし、国内に居た父は戦後すぐに復員してきた。そしてその「焼け電話」を多量に仕入れたのだ。当時は、医者、役所、会社などからは「値段はいくらでも良いから売ってほしい」の売り手市場。おかげで身一つで郷里から出てきた父は一息つけたようだった。

電電公社が出来る以前には、こんな業種も存在していたのだ。

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昭和の香り漂う〝黒電話〟

それはさておき・・・。
そんな昭和の頃、電話が人間と一緒にどこにでも付いて回るようになるなどと、誰が思っていたことだろう。現在では小学生すらスマートフォンを自在に操り、電話は一人一台どころか一人数台も持つような時代になっている。

わずか数十年遡るだけでも、全国各地、何処にでも番号さえ回せば、ではない、数字さえ〝押せ〟ば、瞬時に電話が相手につながるようになるとは考えてもいない時代だった。 

昭和もまだ20年代後半から30年代前半頃には直通で繋がらない地域も多くて、電話局に〝申し込み〟をして相手に繋がるのを待つ、という具合だったのだ。

壁に掛けて、受話器を取ってハンドルを回す式の電話の時代に、私はまだこの世に存在していなかったが、物心ついた頃にあったのは懐かしい〝黒電話〟である。

受話器を取ってダイアルを回す。ダイアルが戻るときの〝ジー〟っという感触は今でも手が覚えている。急ぐ時にはダイアルが戻るのをもどかしく思うこともあったものだ。それからプッシュ式のものが現れて、〝ピッ・ポッ・パッ〟という電子音が〝ジー〟に取って代わるようになった。

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〝携帯〟出来ない携帯電話

移動式の電話は自動車電話が初めてだった。これは利用する側が限られていたせいか、こちらが利用できるような立場にいなかったせいかは知らないが、なんでもアメリカでは1964年ごろから使用されていた、というのだから驚いてしまう。

ごく初期の頃の携帯電話を覚えている方もいらっしゃると思うが、〝携帯〟するには少々携帯しづらい代物しろものであった。その当時は「ショルダーフォン」と呼ばれていたもので、1985年に電電公社(現NTT、以降同じ)が、レンタルの形でサービスを開始した。

戦場の通信兵よろしくバッテリーと通信装置が格納された、重量約3kgのストラップのついた箱を肩に掛けて、上部にセットされた受話器を取って通話する。

家族がひと頃使用していたが、外出時には荷物になるし、それよりも基本料金と通話料金が非常に高額なので直ぐに辞めてしまった。その2年後の1987年に、かなり小型化された携帯電話が発売されたこともありショルダーフォンは姿を消していったのである。

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サラリーマンの味方、ポケベル登場

次に登場し、脚光をあびることになったのが〝ポケベル〟である。日本では1968年に電電公社がサービスを開始して以降、様々な進化を遂げつつ実に2019年9月まで、半世紀以上に亘って存在していた。

一昨年(2019年)、唯一のサービス提供会社となっていた東京テレメッセージがついにサービスを終了したことはニュースにもなり、記憶に新しいことだ。半世紀以上ポケベルが存在していたということは、それだけ利用価値を認められていたというあかしであろう。

1990年代には超小型携帯電話ムーバの一般ユーザーへの普及が始まっていたのだから、その後衰退の道を歩んだとしても民間での通信手段として、長期間人気を保っていたのである。

ごく初期のポケベルは単純なもので、連絡を取りたい側がポケベルの番号に電話をすると端末が着信を知らせるという一方通行の通信機器であった。その端末自体には通信機能が無いので、出先で着信するとひたすら公衆電話を探すことになる。

といってもその頃には街の中、至る所に公衆電話は見ることが出来た。

ひたすら公衆電話を探すことになろうとも、外出の多いサラリーマンや営業職にとっては、出先でも連絡が取れるのは画期的であったのだ。何処にいても連絡がつき、仕事に〝捕まって〟しまう時代の幕開けといえるだろう。

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謎のポケベル語

ポケベルの需要が高かったということは、1993年に「ポケベルが鳴らなくて」というテレビドラマが放映された事でも分かる。主題歌もヒットしたのでこのドラマを覚えている方もおられるだろう。(私は見ていなかったが)
   
ところでポケベル進化の道筋において忘れてならないのが、文字入力が出来るようになる前の数字入力時代に、特に女子高生の間で流行ったポケベル語だ。

残念ながらその当時、私はもう〝女子高生〟をはるか昔に卒業しており〝早打ち〟という言葉くらいしか記憶にないのだが、暗号としか言えないようなこのポケベル語を理解できる方もおいでだろうと、いくつかをご紹介する。

  0833
  0906
  1141064
  0-15

まさに暗号だ。ルールとしては、数字の語呂ごろ合わせの他にひらがなを数字に当てはめた表があり、その表を暗記していたというツワモノもいたそうだ。そこに謎解きの要素も加わって、数字列の作り方はセンスの問題でもあったのである。

タネ明かしをすると、上から「オヤスミ」「オクレル」「アイシテルヨ」、O-157みたいな4番目は、なぜか「ボーリングイコ(行こ)」。こんなメッセージを休み時間に学校の公衆電話に行列を作って、友人とやり取りすることが流行していたなどとはゆめゆめ思ってもいなかったのである。

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〝電話〟が電話を超えた時代へ

そして1990年も終わり近くになって、ガラケー(ガラパゴス型携帯電話)にメールサービスが開始されるや、Eメールの普及と相まって進化は急速になった。

瞬く間に液晶のカラー化、アプリ対応化、写真機能の追加と画素数アップ、〝おサイフケータイ〟などの登場を経て、ドコモから初代スマートフォンが2005年に発売されたのである。その後のスマートフォンの普及と機能の向上については言をたない。 

駆け足で電話の変遷を書いてきたが、そもそも〝電話〟なのである。電話であるからには電話が出来れば良いでは無いかと思いながらも、その手で天気予報を調べ、インターネットで検索し、アドレス帳で住所を参照し、果てはカメラのシャッターボタンも押しているのである。

つまりもう過去には戻れないのだ。蛇口からお湯が出てくるのに、誰が冬に冷水で洗い物をするだろうか。真冬のロケ先で、うっかり腰を下ろしたヒーターの無い洋式トイレに悲鳴を上げたりしているのである。

電話なら電話が出来れば良いじゃないの、と思いながらも今更スマートフォンを手放せない。

電話以上の機能がイジメや学力の低下に繋がる要素を内包し、〝スマホ首〟患者を量産し、犯罪に発展する可能性を秘めていたとしても、その進化が何をもたらすか、利益だけかどうなのかは誰にもわからない。

それなのに〝進化は進歩〟を金科玉条きんかぎょくじょうとする人間は本当に賢いのだろうか、と考えてしまう。

電話について年代等の資料は、以下を参照とした。(2020年5月現在)
DIAMOND online   https://diamond.jp/articles/-/180183?page=7 
Engadget                  https://japanese.engadget.com/2019/09/26/8181-50/

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文責・写真 : 大橋 恵伊子