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日本の文化

憧れ続ける「正倉院特別展」

今年も奈良・正倉院特別展がそろそろ始まる時期となった。

昨年(2020年)秋に開催された正倉院特別展。72回目となるこの年はコロナ禍の中での開催ということで、全てが前売券で、しかも日時指定となっていた。

それでも会期当日には、前売券は完売しており当日券は無し、という盛況ぶりだった。1500年近い時を超えて、今なお、確かに伝え続けられている文物を間近に見られる訳なのだから当然といえば当然のことなのだろう。

遠く中東の地から遥々やってきた敷物や当時の武具など、興味は尽きない。

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大切なのは〝心の余裕〟

と、ここで日本の文化についてほんのちょっとだけ考えてみた。

「文化」と一括りに言っても正倉院御物ぎょぶつのような古いものに限った事でないのは当然のことだ。時代によって新たに生まれた〝習慣〟が育って〝文化〟となったものもあるだろうし、これから育ってゆくものも出てくるのだろう。

では、それらが育って行くために必要なこととはどんな事なのだろうか。

世界中の国々がどんどん近くなっている現在、人が使える時間は感覚的に短くなっているように思う。

300年前には、東京ー京都間を約2週間かけて旅をしていた。現代ではたったの2時間ほどで到着してしまうのだ。

そんな中に居れば生活に必要なものを優先してしまう、という具合にならざるを得ないことは理解できる。

が、本当に大切にしなければならないものと生活に必須なものは別モノなのだ、ということを忘れてはならない。生活に必須ではない物が、実は人間の心を潤すのに不可欠な物だったりする。

それらをいかに見出し、理解し、守っていくかという心の余裕があるかどうかで、文化が育つか枯れてしまうかの分かれ道となるのだと思う。文化が健全に育つということは、国が健全であることに繋がると思うのだ。

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自分の国の事をどれだけ理解しているか?

ヨーロッパなどの古い歴史を持つ国々では、自国の文化を非常に大切にしていると感じる。それは自国の文化に対する深い理解があり、それが国民的レベルでそうなっているからなのだろう。

自分の国の成り立ちや、それに関わった人物、事柄などについて彼らはその歴史をよく勉強していると思う。

私たちが歴史の時間に習ったおざなりな学習ではなく、その国民が教養として身につけているといった感じだ。

それは単に〝学校での勉強〟というだけではなく、国民が深く信仰する宗教を持っている事、ひいては〝国教〟と言うものの存在も大きな要因ではなかろうか。

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自分の国の事にどれだけ興味を持っているか?

日本人の宗教観とは全く異なると思う。かく言う私も別段、どこかの宗派の信者という訳ではない。家の宗派に従って、それも人を送る場面においてのみ、その宗派の儀式を営むのみだ。

日本もある時代には、為政者から〝信仰〟を強要された不幸な時期があった。国民の思考を是が非でも一致させなければならない〝戦争〟の為だった。

が、そもそも〝国の宗教〟のある無しが問題なのではなく、一人ひとりが自国の歴史や文物に興味を持つことが大事なことだと思う。

その気持ちが新たに生まれる〝文化〟を見出し、育てて行くことにつながるのではなかろうか。

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文化とは、何ぞや

ここまで書いていて、そういえば「文化鍋」だの「文化住宅」だの、果ては「鯖の文化干し」などと言うものもあったな、と思い、独り笑いをしてしまう。

「文化」とは〝先進的なもの〟〝新しいもの〟とイコールだという観念があった時代の言葉だ。まぁ、色々な〝文化〟があっても良いが、本当に永く伝えて行くことの出来る〝文化〟を築いて欲しいものだと思う。

正倉院特別展の時のみならず、〝文化〟というものは何ぞや、と改めて思う機会が増えれば良いかなぁと思う昨今なのだ。

それにしても正倉院特別展に行きたい、観たいと何十年も想い続けながら、まだ一度も実現していない。なんとか一度は鑑賞したいものだ、生きているうちに・・・。

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文責・写真 : 大橋 恵伊子