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時間

歳をとると時間が経つのが速くなる?

先日、古い友人と話をした。友人は私と丁度10年、歳の開きがある。彼女がしみじみと言った。「最近、時間が経つのが早くて早くて。ついこの前お正月だと思ったのに・・・。」私は悠然として答えた。「まだまだ。私はついこの間、おととしのお正月だったような気がするのよ」。

もう随分以前のことになるので詳細は忘れてしまったが、ある実験があった。

20代、40代、60代、80代位だったろうか、数人編成のグループを作る。公園の、時計が見えない角度に椅子を置き、それぞれのグループに5分だったか7分だったか、とにかく一定の時間が経ったと感じたら椅子を立って公園から出てください、と指示をする。

この種の実験の常として、実験中は同グループ、他のグループを問わず、一人が実験している間はその他の人たちは別の場所で待機していて実験の様子を見ることは出来ない。

実験が終了して得られた結果は、若い年代のグループほど実際の時間より長い時間を椅子で過ごし、年代が上がるにつれて定められた時間よりも早く公園の外に消えて行く傾向があったそうである。

子どもの頃を思い出すとほとんどの人が首肯こうしゅすると思うが、例えばおやつの時間を待つ間の長かった事、楽しみな外出をするまでの時刻が来るのが遅かった事などなど。ところが、早く経つべき時間を持っているはずである私の現在の年代にも関わらず、無為むいに過ごす時間の長いこと。

いわく、病院や銀行などの順番待ちの時間。この相反する時間の長短はどうしたことなのだろうか。

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時間の方では知ったこっちゃない感じ方の差

年齢をるにつれ、時間に対する感覚が通過する、編み目のようなものがだんだんと粗雑になり、時間の経過に対しても感覚が鈍くなっているのであろう。一方で、忍耐力や集中力の低下、そして物事への批判性の先鋭化などが加速されて行く。

つまり〝年寄りはこらしょうがない〟と言われる所以ゆえんである。もっとも私自身は自分をまだそこまでの年寄りだなどとは金輪際こんりんざい、思っていない。

そこへ特に楽しくもなんとも無い、順番待ちのように無為むいに時間を過ごさねばならないということへの不条理(では無いのだろうが、そう感じてしまう)が加わって、時間の経つのが遅く感じてしまうのであろう。

もとより時間は何人なんぴとにも平等で、この年齢の人には早く経ってやろうとか、この年齢には遅くなってやろうとか考えてやっている訳では勿論もちろんない。

そんなことをしたら、老人と子どもとが一緒にいたらどうなるだろう。時間の方ではどうしたら良いのか戸惑とまどううことしきりではないか。

人間が勝手に、歳をとったら時間の経つのが早くなっただの、若い頃には遅かっただのと言っているだけなのだ。時間にとっては知った事ではなく、人間の勝手で早くなったり遅くなったりされて、むしろ迷惑千万めいわくせんばんな話である。

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もしもモノを認知する人が居なかったら?

ところがこの何人なんぴとにも平等だ、と思われている時間について疑問がある。そもそも時間の経過という事自体、というか〝時間〟という、そのもの自体はこの世に〝実在〟しているのだろうか。

いやいや、ちゃんと歴史と言うものがあるじゃないですか、宇宙の、天体の動きに従って決められたものではありませんか、と言われる向きもあろう。が、ちょっと待って頂きたい。

そもそも歴史はすでに発生した事象じしょうを巡って〝過去〟を知る事なのだから、ある意味当たり前のことであるし、天体運動への理解なども人間が(これも勝手に)求めたものと言える。結果として、そこに〝時間〟という概念がいねんが生まれたのだと思う。

概念がいねんという以上、対象を認知していることが必要だ。例えば目の前にコップがある。眼を開けていれば健康な人間ならコップはそこに見える(在る)はずだ。

その状態で眼をつぶる。コップは見えるだろうか。これで見えればTVにでも出て有名になれば良い。普通は見えなくて当然だ。なぜ見えるかといえば、眼だか脳だか、とにかく特定の器官がコップを〝認知〟しているから見えるのである。

大雑把おおざっぱで乱暴な言い方だと思うが、認知する者が居なければ、何物も〝実在〟しているとは言えないのではあるまいか。

余計な話だが、物体は粒子の集まりであり、粒子には意志がある、という研究がアメリカなどでなされたことがある。

その研究を特集した番組では、私たちが眼を閉じている間、あるいは眠っている間、つまり物事を認知出来ない状態にある間にコップは勝手にテーブルを離れて月にでも行っていて、眼を開けた瞬間に元の位置に戻っているのかも知れない、というオチが付いていた。

認知という側面から見れば、時間とて認知する者があってこその〝時間〟である。例えば地球が消滅したとして、その後にも時間は実在するのだろうか。どうもそうは思えないのである。

認知する人間が消滅すれば、その人にとっては全てのものがその人自身と同じく消滅するだろう。時間とて例外ではない。ならば地球そのもの、もっと言えば宇宙そのものが消滅したとしたら・・・。時間だけが実在しているとは思えない。全てはそこで「ハイ、おしまい」なのだ、と思う。

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「同じ河に入ることは出来ない」

〝太古よりの時の流れ〟とか、〝時は流れて幾星霜いくせいそう〟とか言うように、時間はよく川の流れに例えられていて、ヨーロッパでは「同じ河に入ることは出来ない」という言い方もあるそうだ。

鴨長明かものちょうめいの「方丈記ほうじょうき」にもある。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」まさにしかり、である。

つまりこれは諸行無常しょぎょうむじょう是生滅法ぜしょうめっぽうのことなのだ。常に変わらずにいる物はなく、生まれては滅するの繰り返しであるということを言っている。

時間というものが〝在る〟と仮定すれば、これもまた同じように考えられるのではないだろうか。あの頃に帰りたいと思っても時間を遡及そきゅうする事は不可能である。

時間も川のように常に流れていて、1秒、何分の1秒、何十分の、何百分の、何千分の1秒前にも戻れないのである。そこに認知する者がある限り、という但し書きをつけたいと思う。

その決して同じ河には入れない世界に私たちは生きているのである。せめて〝認知〟できている間は、〝流れている〟時間をせいぜい大事に生きたいものだ。

確かにこの頃、時間が経つのが早くて困る。若い頃には午前中に5つ出来ていたことが最近は3つ位しか出来なくなった。ああ、歳をとるとはこういうことか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。

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                    文責・写真 : 大橋 恵伊子