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京アニと相模原の事件を通して、感じたこと


※過去記事が残っていたため、そのまま掲載しています。_2024年4月25日追記


こんにちは。

数日前に起こった京都アニメーション(以下京アニ)の放火殺人事件と、3年前に起こった相模原市の障害者施設津久井やまゆり園の事件について思うところがありました。
それをつらつらと、書き連ねます。よければ、お付き合いください。


相模原の事件と、京アニの事件(犯人は「パクられた」との発言、怨恨からの犯行?)で共通しているのは、一人の無知で愚かな人が起こした、惨たらしい最悪な事件であること。そして、被害者の中には誰一人として殺されたり、傷つけられていい人はいなかったということです。
私はインターネット上や周囲の狭い声しか拾えないので、何とも言えないですが、この2つの事件に、一つの大きな?違いを感じました。

それは、「人々の反応の温度差」です。
これについて、「私から見た人々の様子」と、「自分が感じたこと」に分けて、まとめます。


私から見た人々の様子

京アニはアニメ業界では非常に有名で、素敵な作品を沢山作っており、日本屈指の才能・技術を保有する会社と言っても過言ではないです。
その中でも、精鋭アニメーターたちがあの場に集っており、そんな方々の命や貴重な原画資料等までも失われてしまいました。
この被害は、関係者やアニメ好きな方にとってだけではなく、国という単位で見ても、大きなものであると思います。
それらを踏まえ、多くの人が嘆き、悲しみ、心を痛めています。
「なぜ?どうして?ひどい、許せない、貴重な才能を・宝を返せ」といった声があちこちから聞こえ、世界をも巻き込む巨大な荒波が起こっています。
これは、私が「アニメ好きな界隈」に身を置いているから声が沢山聞こえてくるのかもしれませんが、そこまでアニメに興味のない周囲の人たちも、ひどい事件だと声を上げていたことから、贔屓目なしに、多くの人が関心を持っている事件だと思います。

比べて、3年前の相模原事件の時は、どうだったでしょうか。
私の知る範囲の、当時のネット上でも、心を痛め、嘆き、怒る人々の声が聞こえました。
でも、その度合いは、今回の京アニの事件よりずっと、ささやかなものだった気がします。大きな荒波が起こっていたのは、正直なところ障害関連の界隈とその他の一部程度であった、と私の中で認識しています。
私のいる場では、面白いくらいに、示し合わせたように誰も話題に触れませんでした。しまいには、冗談まじりに「お前らも殺されないように気をつけろよ」というようなニュアンスの発言もあったと記憶しています。

当時、「障害者はいなくなればいい」という犯人の供述に、心の奥では「同意している・否定することができない」という人が、私が見ていたネットや周囲の人々の中に、直感・感覚として、おおよそ3割はいるなと感じました。(根拠はありません)
このことにぞっとしたのは、また別の話です。


私は人々の反応の数が、「京アニ>相模原」であったことについて、それを責めたりする気はありません。そもそも、知名度や両者に思い入れがある人の数に、圧倒的な差があるので仕方がないことだと思います。

ただ、初めに言ったように「人々の反応の温度差」については、どうしてなのだろうと疑問に思いました。
どちらも一人の凶悪な犯人よって、数多くの犠牲者が生まれた事件に違いはありません。なのに人々は、この2つの事件に対する反応に温度差があったように思います。これは一体、どこから来るのでしょうか。

すでにネット内では少し言及されていますが「才能の有無」「存在価値の有無」に関連する話題が挙げられていました。
本来は馬鹿馬鹿しいことです。才能の有無など、その人の存在価値を決めるのには関係がないし、誰もが無条件に存在価値を持っているはずです。
稀有な才能のある方も、言葉を発せない重症心身障害のある方も、等しく「生きる価値」があります。

でも、3年前に感じた恐ろしさと今回感じた違和感を通して、大衆の価値観はそうではないのだなと、改めて感じました。


自分が感じたこと

私自身はこの2つの事件についてどう感じていたかというと、
京アニの事件については、とても痛ましく死者数が増えるにつれ、やめて、これ以上増やさないでと、祈る思いで事件を見ていました。
相模原の事件の時も、とても痛ましく悲しかったですが、どこかで「ついに起こったな」とこの凶行を客観視している自分がいました。
(被害者の方々を軽んじているわけではありません。自分が被害者の立場になる可能性だって充分にありますので…)

どうしてそう感じたのか、一言で表すのは難しいですが、簡単に言うと「私の身近な人たちもきっかけさえあれば、相模原の犯人のような凶行に及びかねない」と常々感じているからです。
私は、日々の生活の中で、一部の介助者や支援者達が被っている「やさしさの仮面」の奥に潜む、彼らの身勝手な素顔を時々垣間見ています。

支援は、困難な状況にいる人を助けることです。また、人に何かをしてあげることは、心地よく、一種の快楽のようなものを得られることがあります。

自分に自信のない人にとって、私たちのような「人の手が無くては生きていけない人間」はモンエナ・レッドブルより強力なエナジードリンクのようなものではないでしょうか。
私たちの生活を助け、命をつなげることで、簡単に自分の存在が肯定された気になれます。
「あなたのおかげで生きているわ、ありがとう」
なんて言われることだってあるでしょう。それはきっと、とても気持ちのいい瞬間なのだと思います。
そんな風なことでしか喜びを感じられない人はいつしか、私たちを支配しようとします。もっと気持ちよくなるために。
「あなたにはこれが必要だから」
「私ならそれを与えられるから」
「私しか与えられないから」
と、思考はどんどん狭まり歪んで行きます。そうして出来上がった(ある種一方的な)共依存関係に、私たちが抵抗を見せた途端に、
「私はこんなにも、あなたに尽くしてあげたのに!!!」
と今までかぶっていた「やさしさの仮面」を投げ捨て、突然私たちに殴りかかってくる。ということも起こり得ます。

相模原の犯人の動機は、この流れとは違うと思いますが、
「彼らのためにも、自分が何とかしてあげなければ」
という歪んだ正義感から来たものではあったようです。

もちろん、全ての介助者、支援者が「やさしさの仮面」をかぶっているわけではありません。素敵な人も、沢山います。
私はその仮面も、人に手を貸しながらも自分が気持ちよくなっている人たちも、悪いとは思いません。何かをするなら、気持ちいい方がいいし、人付き合いをするために大なり小なり仮面をかぶることは誰にでもあります。

ただ、他人を支配、抑圧しようとするのは絶対に間違っています。あまつさえ、殺すことは何があっても許されることではありません。
支援者と当事者は、「する側、受ける側」と立場が上下に分かれた関係になりやすく、上記のような歪んだ関係性に発展しやすい印象があります。

私の周りにも私をそのように支配する人が何人もいます。彼らがいつ私に襲いかかるかもわからない。そんな恐怖を常に抱えているので、相模原の事件に対して「ついに起こったな」という思いを抱いたのだと思います。
きっと私がそんな風に思ったのは、自分が昔からずっと特殊な環境下にいたことも関連していると思います。

ただ、大衆はともかく、2つの事件に対する私の気持ちにまで温度差があったことが不思議でした。動機や対象に違いはあれど、一人が多数の人を殺めた事件として見れば同じなはずです。
私は重症心身障害のある方が、やまゆり園の犯人が表現していたような「心失者」だと思っていません。彼らを価値がないとも思いません。
だけど、なぜだか京アニの事件の方が、私の心は大きく揺れ動きました。

きっと私にその温度差があった理由は、そうなることが「想像ができていたか否か」だったのかなぁと自己分析しました。
相模原の事件は想像できていたけれど、京アニの事件は、まさかこんなことが起こるなんて、思ってもいませんでした。


この2つの事件のことを考えている中でふと、心のどこかで自分自身も未だ「障害者はいなくなればいい」という言葉をはっきり否定できないのかもなあとも思い、とても不甲斐なさを感じました。

私はまだまだ未熟です。


とりとめもないですが、今日はこの辺で失礼いたします。


最後に、これらの事件で被害に遭われた方々のご冥福を祈るとともに、今なお苦しんでおられる方々の一日も早い回復と、これからの人生に沢山の幸福が訪れますことを、心から祈っております。

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