エッカート・マルルーレ〔再録〕
一
バスを待つあなたを見ている。
きれいに刈り込んだ髪。
スーツもシャツもパリッとしてる。
この時間だとあなたがいる。
だから少うし合わせてみた。
本を読んでることもある。
スマホを見てることもある。
彼女さん?
ではなさそう。
バスの揺れに乗じて画面チラ見したら配本サイトだった。
本当、本が好きなのね。
吊り皮もつ手が大きくてきれい。
名前も知らないあなた。
お年寄りに手を貸したり、忘れものですよって声かけてあげたり。
あなたは優しすぎる。
思いつく。
私も忘れ物しよう。
あなたに気づいてもらおう。
サブバックを持って乗り、うっかりのように忘れる。
なんて…
出来ないわ…
私の停留所が近づく。
今日のあなたとはさようなら。
また明日ね。
降りかける私に彼が示した。
「お忘れですよ」
傘!
「ありがとうございます」
耳まで赤くなってしまった。
下りてバスを見送る。
優しい人。
あなたは私をまだ知らない。
二
書店に入ったら、信じられる?
いたの。
あの人よ。
書架をほんとに楽しそうに、本を選びながら歩く。
経済書も、政治の本も、ミステリーもロマンスも、ひとしなみに愛しいみたい。
私、本になりたい…
「浜口様ー」
きゃっ!
このタイミングで呼ばないでよ。
予約の本が届いております。
少々お待ちくださいのあと、ぶらぶらしてて見つけてしまって、気づかれないように見てたから…
そっとレジカウンターで受け取って、代金払って外へ出る。
バスでご一緒するだけの人…
「はまぐちさん」
振り向くと、ああ神様、あの人が私に笑みかけていた!
真っ赤な耳から火が出そう。
ハートは爆発しそう!
でもどうして名を?
「店内で呼ばれたでしょう? 『暁』買うひとなんて珍しいなって思ったから。マルルーレ好きなの?」
マルルーレ。
エッカート・マルルーレ。
好きなの?
私が、
私が好きなのは…
好きなのは…
三
通勤のバスで出会ったの。
すっきりした好青年。
あなたの時間に合わせるように乗って。
あなたがバスで読んでた本、私も買って。
難しくて三行で寝ちゃったけど。
これがあなたの好きな作家さんなんだなあって。
大きくてきれいなあなたの手。
その手はお年寄り支えたり。
席譲ったり。
ボタン押してあげたり。
私に傘、気づかせてくれたのもあなた。
お忘れですよって。
それが始まり。
あれから一年。
私はあなたのものとなり、あなたと一つ屋根の下。
いってらっしゃいと送り出す日も多くなった。
やきもきする。
私を置いて出てゆく日も、あなたはあのバスの中。
きょうも優しいそのキャラで、みんなを和ませてるに違いないから。
女子高生が囁き交わしてた。
あの人すてきよね。
優しいし。
紳士だし。
OLさんは企んでたわ。
どのタイミングで声かけよう。
サンジョルディの日に本あげよかな。
それともいきなりお茶誘っちゃおか?
そんなこんなにもめげないように、心繋いできたけれど。
正直/
限界/
みたいな気もする…
驟雨。
急いでベランダへ出、洗濯物を取り込む。
少し濡れてしまった。
でも。
夕方までには乾くわ。
一年記念日のケーキの上に、洗濯物がはためくなんていやだもの。
ああ…
早く帰ってこないかなあ…
いやだ。
寝てしまった。
七時すぎてる!
まだ帰って来ない。
どこで。
何してる?
あんなに優しいあなた。
あんなに素敵なあなた。
私なんかといて、
幸せ?
四
ケーキ。
冷蔵庫に戻し。
ワイングラスも片づけた。
もう帰らない気がするの。
九時すぎたし。
私は私の荷物を持って、最近は殆ど帰ってない、自分のアパートを鍵を探し始めている。
楽しかった。
それでいい。
私はあなたと一年も居られた……
マンションのドアに鍵をかけ、ドアポストから中へ滑らせる寸前
「どこ行くの?」
柔らかい優しい声。
いちばん聞きたくなかった声。
振り向けずに言う。
帰るの。
一番ふさわしいところ。
だってあなたはお坊っちゃまで、一流企業につとめてて。
私は小さな玩具会社で、事務やってるだけの…
「こっち見て」
振り向かされた私の目にうつったのは。
いつになくダサイずぶ濡れのあなた。
いつも後ろになでつけてる、きれいなおぐしもザンバラで、コートもズボンもドロだらけ。
「どうしたの!?」
やっとこっちを見てくれた。
言いざまあなたは私を抱きしめた…
エピローグ
数日後表彰状が届いた。
老婦人のバッグひったくった若者追いかけて。
追いついて。
バッグ取り戻したはよかったけど。
体当たりくらって逃げられた。
もんどり打って倒れた拍子に不運にもスマホは全壊になり、若者つかまったのでケイサツ同行したら、めちゃめちゃいろいろ手間どった…
あなたの説明通りでした。
そして今、
私の指にはきらきらの、
エンゲージリングが輝いている。
秋には姓、変わります。
それでも地球は回っている