死ぬまでにしたいこと①

死ぬまでに一度でも、こういうことしたいなあと思うことがある。
何かを成し遂げるとか、たいそうな事ではない。

思い返すこと、息子のちょうど一歳の誕生日。
その日、一台のタクシーが我が家に停まった。
インターホンが鳴り出ると、夫の親戚のおじさんが真っ赤なジャンパーを着て、朗らかな笑顔で立っていた。大きなホールケーキを持って。

このおじさんとは法事で一度か二度お会いしたくらいの面識である。
それなのに息子の誕生日を覚えていて、そして誕生日当日にケーキを持参して訪問して下さったのだ。
おじさんは近所に住んでるわけでもないし、なんなら少し離れた場所にお住まいだ。
このバースデー訪問という善意でしかない行動に一同驚き、そして喜んだ。

終始にこやかなおじさんに一気に和み、赤いジャンパーがピカピカと光っていた。
息子の祝いをした後、早々に「じゃ」と、家を後にした。
おじさんはとても優しい顔をしていた。姿形を変えて現れた神様なのかとさえ思うほどだった。

しばらくしておじさんが入院したと聞いた。夫とお見舞いに行く。カーテンの奥におじさんは少ししんどそうに、でもにこやかに笑っていた。
いまだにおじさんの「忍の一文字ですっ!」と笑顔で放った言葉が忘れられない。
数年後、おじさんのお葬式に参列し、式の中でホールケーキを持って赤いジャンパーを着て、にっこり笑って立っているおじさんの残像が消えては浮かんだ。
善い人というのは、誰かの心に残るのは最後の笑顔なのだ、と思った。

普段遠い親戚の人に、全力でホールケーキを持って行き、最大限に祝うというのは中々難易度高い行為である。
そういえば十年以上前、結婚式を挙げていない友人夫妻のためにウエディングケーキを作り、割と遠方まで電車を乗り継ぎ、サプライズで祝ったことがある。とても喜んでくれたが、それは友人との今までの関係があってこそである。

おじさんはなぜあの時、孫でもない息子のことを全力で祝ってくれたのかはわからないが、私もいつかおじさんのように、ピカピカの赤いジャンパーを羽織って全力で誰かを祝いたい。
人と人とが交流するということは、その家を訪れて顔を合わせて会話するということなのだ。




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