自転車がほしい


初めて気に入った「自転車がほしい」とはっきり思ったのは、今から15年前くらいだった。それまで普通のママチャリに乗っていたし、乗れればいい、というかんじだった。

だが急に「自転車で街を駆け抜けたい」という衝動に駈られたのだ。

前から気になっていた、京都の自転車好きが集まるという自転車屋に行くと、奥からヒッピーみたいなおじさんが出てきて、「ふたばの豆饅頭食べるかあ?」となぜか豆饅頭をご馳走になった。流れてる空気も「家」みたいだった。

何人かの若者とおじさんと世間話をして、そこの店のオリジナル自転車を買うことに決めた。色は白。女子にしてはやや大きめサイズだったけど、これを乗って街を駆け抜けたら気持ちいいだろうなとわくわくしたのを覚えている。

フレームに付けられたロゴプレートには、

The end of oil age

Wear off the fat in your Body&Soul

と刻まれている。さらりとなかなかの思想哲学。

その自転車で、京都中を走り回った。寺町通、夷川通、御池通、三条通、五条通り、白川通、東大路通、、

嵐山から出町柳、西へ東へ。完全に相棒となった。


それから1年ほど経って、仕事帰りに駐輪場に向かうと、自転車のライト’キャットアイ’が盗まれていることを発見。暗闇の中で「誰が盗むねん!」と小さくキレた。仕方ないので、その足でキャットアイを買いにあの自転車屋に寄った。相変わらずヒッピーのようなおじさんが奥から出迎えてくれた。

それをきっかけに仕事が終わると、ちょくちょく自転車屋に寄ることが増えた。

決まって奥からオーナーのおじさんが顔を出し、「腹減ってるかあ?」と奥の小さなキッチンでまかない飯を作り出す。おじさん曰くまかない飯は「安い、早い、うまい」でなければいけないとのこと。ちゃちゃっと5分くらいでうまい飯が出てくる。

自転車屋は閉店しているというのに、わたしのようにどこからともなく人が集まってきて、おじさんのうまい飯をご馳走になるのだ。皆職種も年齢もバラバラだ。ただおじさんの話を聞いたり、話を聞いてもらったりする。

時には音楽をしてる者同士が集まるとセッションが始まる。夜中だというのに。当然近所から苦情が入る。その度におじさんは怒られに行く。大人が大人に怒られる。決してセッションをしていた若者を諭すようなことは言わない。いつだってその空間はおじさんによって守られていた。


自転車屋だというのに、自分の自転車に鍵をつけていないおじさんは、何度も盗難にあっていた。盗られても「あ!またやられた!」と一瞬頭を抱えるも、それだけだ。そしてまた当然のように鍵をつけない。フリースタイルだ。全面的に人を信用しているのか、鍵をつけないことに美学を感じているのか謎のままである。


あのおじさんはもうこの世にはいない。通夜、葬式には各方面の著名人が参列し、おじさんの人脈の広さと影響力に度肝を抜かれた。まっとうな肩書きがある人から、自称官能小説家まで幅広すぎた。遺影はタバコを吹かした写真で、ロックなかんじで格好よかったし、夜通し、ミュージシャンたちが思い思いに曲を披露していた。それを怒りにくる大人はもういない。

ただの自転車屋でなく、おじさんを接点に普段出会うことがない人同士が出会う場所でもあった。その店でわたしは知った。店の表面的なものよりも、その店主の人柄、哲学、世界観に人は集まるということを。


子供が生まれてから電動自転車もしくは車という生活になったが、産後初めて一人で相棒に乗った時、なんとも言えぬ爽快な気分を感じた。鍵はもちろん付けている。


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