世にも恐ろしい日本海の思い出



日本海沿いの小さな港町で生まれ育った。

通っていた小学校のすぐ裏が海。そんな環境で育ったため、海にまつわる思い出は数多くある。休みの日は家族で漁港へ行き、海釣りもよくしていた。ただ渡された竿にはリールがなく、周囲を見渡すと皆リールを巻いてるではないか。幼いながらにも、あのリールを巻くのが格好良く見え、想像の中でリールを巻くしかなかった。

エアーリールである。エアーギターが流行る何十年前に、わたしはエアーリールを開発したのである。機嫌良く手を回していると、両親にその姿が見つかり、大爆笑されたのは言うまでもない。

また魚の餌にミミズが使えると、父は溝のミミズを素手で捕まえていたこともあり、子どもながらに「野生的過ぎるやろ」と内心引いていた。

今では禁止されているが、当時は皆バケツ片手にワカメやサザエも当たり前のように採っていた。サザエは湯がいて食べるのだが、子どもがおいしいと感じるものでなく、ほとんどが父の酒のアテになるのだった。

夏の海水浴シーズンは観光客で海も賑わうが、それ以外はサーファーがちらほらいるくらいで、静かな日本海である。

小学生だけで海へ行くことは禁止されていたが、浜辺くらいはいいだろうと、ちょくちょく友達と遊びに行っていた時の出来事である。

シーズンオフの日本海、人はほとんどいない。友達と波際から少し離れた場所で、砂山を作って遊んでいると、見慣れない若い男性が一人こちらの方へ近づいてきた。

「なにして遊んでるのう?」記憶では男の顔はよく覚えていないが、へらへらと笑った口元だけは鮮明に記憶にあり、まるで笑うセールスマンのような不気味な笑いだったのである。

幼いながらに、嫌な予感が走った。「逃げろ」とどこからか声がしたような気がした。

わたしは咄嗟に友達の手を引いて、その場から逃げ出し、自転車を無我夢中で走らせて家に帰った。仕事で両親はいなかったので、すぐに玄関のドアの鍵をしめて、友達と恐怖のあまり震えていたのを記憶している。

80年代後半、世間では女児誘拐のニュースで騒がしい時期で、こんなに小さな田舎町でも誰かが連れ去られたとか、神社で死体が見つかったなどよく耳にするようになったのである。


あっという間に沖に流されたら終わり、というのは小さい時から知っていたので、常に海というものは少し距離を置かなければいけない、怖いものの一部だった。

そんな日本海。恐ろしい小学校の授業があった。

「遠泳」である。

綿の白い紐を体に巻きつけ、その紐で皆繋がれて、一斉に海を泳がされるのだ。学校のプールとは違い、足もつかないくらいの深さで、荒々しい日本海の波を受けながらただひたすら泳がなければいけないのだ。

子どもながらに、罰ゲームか何かかと思うくらい、恐ろしい時間だった。皆一様に凄まじい形相で泳いでいた記憶しかない。

あの授業は今でもあるのか疑問だが、大自然の脅威を十分体験できたことは確実である。


そういうわけで、子どもの頃は割と海とは距離を置いていたのだが、高校の時の国語の授業で、ある子が作文を発表をした時の内容がわたしの胸を打った。

「私は何か嫌なことがあったり、もやもやとした時には、海へ行きます。海を眺めていると、私の心を海が全部受け止めてくれて、流してくれるようで癒されるのです」というような内容だった。

それを聞いて、そんな風に思う人がいるのかと思ってびっくりしたのである。内容もどこか詩人のようで、彼女の大切な部分に触れたような気がした。

それで海に対する気持ちが少し変わり、学校を卒業して度々実家に戻る際には、歩いて海まで行き、ただ海を眺めたりするようになったのである。





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