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─『The Trial of the Chicago 7』

Netflixで視聴。

エディ・レッドメインが出てるとのことで見ました。その良し悪しはさておき,最近俳優を中心に映画を観てしまう気がする。まぁいろんな映画に出会えるのでよしとするか。もっとも,俳優だって出演する映画を選んでいるのだろうから,その思想的な何かに少しは共感するからこそ「人」から見ていくのかもしれない。
(追記:映画を観た後に文章に綴る時,映画それ自体の感想というよりも,映画で触れられている題材から「そういえばこんなことあるよな」と芋づる式に出てきたことを考えた記録,となることが多いなと気づいた。)

「起訴に値しない」

正直なところ,働き始める前までは行政のどこに「政治的な判断」とやらが介入してくるのか,実感がなかった。

国会で政策が議論されて,新しい法律ができて(あるいは古い法律が改廃されて),行政庁がそれを適用していくという流れにおける「政治」は想像がついた。だけど本作を通じて,すでに運用されている法律について,適用の仕方を変えることにも「政治」の要素があったのだとは初めて理解したような気がする。時の政権(大臣)が「この法律はこう解釈してください」と言えばその通りになるわけで,考えてみれば,行政にも政治が介入する余地があるのは当たり前のことだ。だから自衛隊の存在も議論になっている。

1968年シカゴ民主党大会の暴動に関して,ジョンソン政権下(民主党)の司法省においては7(8)人に暴動の責任を問わない(というか作中では警察側に問題があったという報告書になっていた)=法を適用しない=起訴しない,という判断を下した。これに対し,ニクソン政権下(共和党)においてはその判断を覆して裁判に持ち込むことになる。「政治裁判」だとアビーらが言うわけだ。

起訴することについて,作中の担当検事シュルツは「彼らは起訴に値しない(相当しない)」と意見を述べている。個人的にはこの意見を,シュルツは「立件は不可能ではないが,わざわざ立件するほどのことを彼らはしていない(本来の法律の適用対象(目的)とするところでは無い)」と考えているのだと読み取った。上司の職務命令でこの意見はどこかへ行き,起訴することになってしまうわけだけど…。

刑事事件に関して,法律で人を裁くというと,第一に裁判所が思い浮かぶけども,法律を適用しているのは行政庁である検察になる。検事が起訴しなきゃ刑事裁判は始まらない。

法の適用の可否については,特に検事なんかは独任制でもあるのだから,法律に基づくにはしても,個々の判断になるわけだ(と思うのだけど)。さらに「政治的な判断」が入ってくるとなると,恣意的なものになる余地がある。

どこかの行政書士が日本の企業の7割くらいは労基法違反だと言っていたけど,こんなにも違反の状態が続いている理由も分かってしまう気がする(まぁ一件一件立件してたらキリがないし人手も足りないんだろう)。

こうして偏った判断が生まれる可能性がある一方で,「起訴に値しない」と意見したシュルツ検事については,良い意味で(本当に良いのかどうかは判断がつかないけど)法適用のバランスを持っている人物として描かれているように感じた(Wikiの情報だとシカゴ7裁判時の検察官はシュルツの上司のトム・フォラン になってるので,そこら辺はよくわからない)。

また,量刑前の被告人陳述のシーンで,立場上敵対する被告人の陳述ではあるけども,シュルツはその内容に対して敬意を示していた。彼は法の適用であったり,「良識」であったり,物事の「バランス」としての役割を担っているように感じた。

(出演作である『スノーデン』を見ているせいか,個人的に俳優さんのイメージも良い)

少し話が戻るけど,恣意的な法律の運用がなされる余地がある以上,法律って難しいけど,それを選挙だったり政治だったりに参加しない理由にしてはいけないよなと思った。

客観的な事実はない

歴史叙述でも散々言われてきたことだ。人が文章を書くとき,そこには必ず何らかの主観が含まれる。し,それを読む側の主観も含まれる。

検察側が招喚した証人たちが述べていく,どこか歪められた「事実」を聞いていて,「事実」って何なんだろう…とすごく思った。確かに彼らは偽証はしていないし,省略した「事実」を語っている。

それを元に陪審員は判断していくのだから,「正確な」判断など出来るわけがない。

あれ,似たような映画があったような…。ピエロのやつだ(『ピエロがお前を嘲笑う』)。あれも意図的に事実を細切れに出していくことで,受け手に想像させ,新たな都合の良いストーリーを作り出すという手法だった。

あの法廷には,判事にとって,そして誰かに責任をなすりつけたい人間にとって都合の良い「事実」しか存在しなかった。

判事の「ここは私の法廷だ」という台詞は,この裁判がとても恣意的な裁判であったという印象をもたらしている。記録員(?)への記録(発言)削除の命令からは,「残っている記録さえ,起こったことが全て記録されているとは限らない」ということがよく分かる。

これはとても恣意的な(一方にしてみれば理不尽な)裁判であったけども,物事を客観的に見るというのはとても難しいことで,強制力のある公権力がそこに携わるとき,慎重でなければならないと感じた。

権力権力言っても結局そこにいるのは「人」だから。

そのほか色々

ちょっと前半に時間をかけすぎたので箇条書きで勘弁してほしい。

・文脈を切り捨てるとか所有冠詞のくだりとかもすごく印象に残った。切り取って揚げ足取るのってすごく簡単だけど,前後を理解するように努めることのできる人間でありたい。
・文脈を切り捨てたら成立しない,というかおかしなことになるのは法律も同じだし。
・そもそも法律も客観的なものではないんじゃん。「成人は18歳とする」とかならまぁ分かりやすいけども,「戦力はこれを保持しない」(これは憲法)の「戦力」について,たくさんの解釈が可能だから自衛隊がどうの,という問題になる。

・ボビー・シールが猿轡をはめられた時に,事前に示し合わせたにも関わらず,ヘイデンが反射で「起立」してしまっていたけど,この反射というのもなかなかの曲者だと思った。習慣というのはなかなか直せない。

・最初から最後まで「反戦」で統一されていたことに,7(8)人の信念の強さが伝わってきた。

・ところで,作中に登場した「ブラックパンサー党」について。「ブラックパンサー」といえばマーベルの映画しか知らなかったので,まだまだ勉強しないといけないなと感じる。

今回感想(というか映画を観て思ったこと)をまとめてみて,話題の方向性がなんとなく職業柄なのかな,と感じる。自分で思ってるよりも染まるもんなんだな…
法律だったり,常識だったり(常識というのは,今はもう古い言い方かもしれないけど)バランス感覚を持ち合わせて働いていきたいなと思う。

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