「みんなどうかしてる」とは、私も時折思うことがある。─『永遠に僕のもの(原題:El Angel)』

アルゼンチンの映画を見てきた。

なぜアルゼンチンの映画をわざわざ、という感じではあるけども、私だって見に行くまではアルゼンチンを舞台とする映画だなんて知らなかった。

給料の入った8月の金曜日(これを推敲している現在、既に1ヶ月を経過……)、退勤後の電車の中。Twitterのタイムラインをスクロールしていたら、たまたまこの映画の情報が目に飛び込んできた。Twitterって、偉大だ(結論そこじゃない)。

ところで、目から勝手に飛び込んできて、その印象が脳内に残り続ける情報ってあるじゃないですか。例えば文字列だとか、画像とか。

「永遠に僕のもの」

この文字列が、最近の私にはどんぴしゃで、おまけに映画のポスタービジュアルの雰囲気もまた、私を虜にするには十分すぎた。

主人公(男性)が浸かるバスタブの水はぬるそうで、彼はきっと、ほのかに煙草の匂いを香らせている。熱くも冷たくもない温度感が、なんとも言えないメランコリックな雰囲気を醸し出している。

そのポスターを小さくしたもの(鑑賞者に配布されたシール)が今、私のiPhoneの背面を飾っているので、電車の向かいの人には丸見えだ。

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とりあえず、倫理観をずたぼろにされる映画と言っておけば間違いないのかな。ずたぼろというか、これを「美しい」と感じてしまう自分がいることに、戸惑いを覚えるような。

この映画のコピーでもあるけど、

「堕ちる」。

天から生み落とされた彼に、私たちは「堕とされた」んだ。原題はそのまま「天使」という意味だけど、それに関連して「堕天使」という名詞が似合ってしまうね。

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「みんなどうかしてる」

「神の使い(スパイ)として天から遣わされた」(この台詞については記憶が曖昧)

「母さんが祈った結果、天から僕が生み落とされたんだ」

本編は、彼の気だるそうな雰囲気を帯びた言葉から始まった。

主人公はアルゼンチンの青年で、彼は実在の人物をモデルにしているらしい。その人物というのはわずか20歳にして35の事件(殺人、殺人未遂、強盗……)を起こし、今なお終身刑に処せられている、カルロス・エドゥアルド・ロブレド・プッチ。名前が長い……。

映画で描かれる主人公に対しても、この実在の人物に対しても、「彼が起こした犯罪について、彼にとっては全てが自然な流れの中で起きたことなんだろうな」と思わざるを得ない。特に映画の中でのカルロスは、「美味しそうだったから、食べた」のような動機で、人のものを盗み、何もかもが自然だと感じている様子が印象的に描かれていた。

どうしてそんなに犯罪を犯すに至ったのか、(2019年の日本に生きる私は)理解することを放棄してしまうほどだ。

ただ、1970年代のアルゼンチンの背景を考えれば、少しは彼に近づけるんじゃあないか。この時代は、ゲバラやカストロがいた少し後の時代かな。劇中でも、ゲバラとカストロの例えが出てくる。革命で荒れていた、というと表現があまり良くない気がするけど、波があった時代かな。ふむふむ。
……とか思うじゃん?全然分からん。ムリ。

一方で、セキュリティ的にはがばがばの状態の部屋に放置される(待機させられる)も、その家の主人に「盗むな」と言われてその通りにしているシーンが挿入されている。

さらに、彼自身が両親のことを「善良な人」と表現しているシーンもある。

「悪いこと」に関しては不明だけど、少なくとも「善」については、それを「悪くないこと」とみなしているんだろう。

ところで最近は、「善」と「悪」の境界線が曖昧になってきているようにも感じる。もちろん、例えば殺人は悪いことで、黒か白かで言えば絶対的に黒だ。

ただ、ドラマや映画さらに言えばテレビで流れるようなニュースを見ていると、その人が罪を犯さざるを得なかった環境・背景に言及しているものが多いように思う。そうしたことから、彼らもまた社会から締め出された被害者であるとみなして、罰ではなく、その根本的な解決(≒救済)の構築が主張されたりして、黒なんだから白なんだか分からなくなってくる。

確かに、新たな犯罪者・被害者を生み出さないためには、罪を犯さざるを得ない環境に置かれている誰かに手を差し伸べなければならないとは思う。だけど、その軽重を問わず罪を犯した時点で、その人は悪で、哀れみを掛けるべき対象ではなくなる(知的障害を持つ人たちなどについては、私自身知識を持っていないので除くことにする)。

哀れみを掛けるべき対象、報いに値する対象であるかどうかについては、小野不由美先生の『黄昏の岸 暁の天』内の場面がとても印象に残っている。自分への処遇を不満に思い、反乱(暴動)を起こした輩について、その動機も一理あるのではないかと言う主君に、官の一人が諌めている場面がとても印象に残っている。すなわち、

「報われれば道(「人としての道」、という文脈)を守ることができるけれども、報われなければそれができない。─そういう人間をいかにして信用しろと?」
(中略)
「結局、そういうことでしょう。自分の行為が自分への処遇を決める。それに値するだけの言動を為すことができれば、私のような者でも助けて差し上げたいと思うし、場合によっては天すらも動く。周囲が報いてくれるかどうかは、本人次第です。それを自覚せず、不遇を恨んで主上を襲った。こういうのは、逆恨み、とこちらでは申すのですが」
(中略)
「逆恨みのあげく、剣を持ち出すような者の意見に、耳を傾けるだけの理があろうはずがございません。─これもまた、本人の言動が報いるに値するかどうかを決する、という実例でございますね」

だからこそガンジーやダライ・ラマ14世の非暴力思想などがあったりするんだろう。

───

映画の話に戻りまして。

最後はまぁ、逮捕されて終わるわけなんだけど、その前のシーンが印象的で。

逮捕前夜に彼が逃げて夜を明かした場所は、親友の家で、そこは既にもぬけの殻となっていた(劇中では親友を、彼が交通事故に見せかけて殺している)。そして彼が音楽に身を任せて踊り終えるところで、幕が閉まる。

主人公がただの猟奇的な犯罪者であったら、こここまで(太平洋を渡って日本まで)有名にはならなかったんだろう。

主人公の若さと美しさを取り入れることで、この映画を、より「危険性」「危うさ」を孕んだ作品に仕上げたんだろう。

美しさというものは大抵、正のベクトルで測られるものだろうけど、この映画を見ると、危うさという、どちらかと言えば負のベクトルで測られるものと隣り合わせである、という印象を受けた。

その美しさが故に、彼の半生に陶酔してしまいそうになるけれど、それは決して褒められたことではない。

主人公は、社会のしがらみ(例えば法律であったり、「常識」であったり)に縛られていきる人々を「みんなどうかしてる」と言っていて、確かに私も何かに縛られて生きるのは嫌だなと思うけれど、彼の場合は自由に生きたくて、「犯罪」にまで至ってしまう。

多分、普通の人間は(普通が一番難しい表現であるけど、あえて使う。)その自由すぎる感性に、憧れつつも、それとセットになって付いてくる「悪」に怖気付いて、何とも言えない後味が残るんだろう。

───

別に罪を犯したいわけじゃないけど、この映画の主人公の、「自分の中の心の声」みたいなものに、流されて生きるような生き方は嫌いじゃない。

就活生だった頃の自分は、「論理的」に見える人間でありたかったけど、どちらかと言えば最近は、「感性」寄りに生きたいと思ってる。だからと言って「論理的思考」を手放すつもりもないし、むしろそうした捉え方でこなした方が良い局面があることも知っている。

社会の枠組みに従って、しがらみにがんじ絡みになって、他人の手のひらで転がされるようには生きたくない。

「みんなどうかしてる」

冒頭の主人公のこのフレーズが頭にこびりついて離れないのは、社会において明文化、あるいは暗黙の了解となっている、あらゆる「決まりごと」に反抗したい自分がいるからかもしれない。

#映画鑑賞 #エッセイ #感想

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