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毒親から逃げられない話 小学校編⑦

今日目が覚めた時、本当にベッドから起き上がれなくて、一日中体がしんどかった。

さて今日は小学校時代の友人関係について書いていく。

(初回)

https://note.com/amiko_m/n/naad06cba63b8

(前回)

https://note.com/amiko_m/n/n3118add4b02c


⑴ 四人組の始まり

私は広く浅く付き合うタイプだとあの頃は思っていたが、思い返せばみんなから倦厭されていたのかもしれない。
いつも同じ服(全く同じ見た目の服を複数枚持っていた時期もあった)を着ていて、持ち物は地味でパッとしない女の子。
女子とは話が合わず、男子との方が気軽に遊ぶことができた。

しかしそれでも家が近いためにいつも一緒に帰る友人たちがいた。
家が近いというだけで私のような人間と関わらなくてはいけなかった彼女たちに申し訳なく思う。

二人組が三人組になり四人組になった。
最初の友達をA、二人目をB、三人目をCと呼ぼう。

Aと二人の頃は比較的平和だった。
二人とも読書と絵を描くことが好きで、両方が好きなことについて話をしながら下校していた。
一緒に読書感想文コンテストに応募したこともあるし、同じ習い事もしていて切磋琢磨できる相手であった。
(読書感想文コンテストは正直苦い思い出である。私は佳作に選ばれ賞品ももらうことができた。しかし私の提出したものは9割母が書いたものであり、私の文章ではなかった。「こんな文章じゃダメよ」と全部書き直され、抵抗なぞできるはずもなかった。本来文章能力はAの方が上であるのに、私の方が評価されてしまったことは申し訳なく感じていたが、言い出せるはずもなく胸に秘めておくしかなかった)

Aも私も公園で遊ぶことはなく、帰宅後はそれぞれの時間を過ごしていた。
転機が訪れたのは4年生の時である。

Bが引っ越してきたのだ。
彼女は溌剌としていて体を動かすことが大好きな子であった。
やがてBは同じクラスであり、途中まで帰る道が一緒のCを連れてきた。
Cも文武両道の女の子で、女子でありながら地域の少年野球チームに所属するほどの活発な性格だった。

すると放課後は四人で公園で遊ぶことが日常へと変化した。
しかし私は以前書いたように、解散まで一緒に遊ぶことができない。
だんだんと四人の中でも異質な存在になっていった。


⑵ ずれていく

お互いの家を行き来するようにもなった。
家で遊ぶとなると、ゲームである。
けれども私はゲームボーイもDSもたまごっちも持っていない。
みんなが操作しているのを覗き込んで見守ることしかできなかった。

母にいくらねだっても「そんな暇ないでしょう」「ゲーム以外の遊びを提案すればいいじゃない」と取り合ってくれることはなかった。

Cの家にはゲームキューブがあって、そこでは唯一みんなに混ざってゲームをすることができた。
スマブラやマリカーをやったが、操作機に触れたこともない私はどのボタンを押せば良いのかというところから始まるため、消化不良になるのが常だった。

お互いの家に行くにしても、私は事前に母に申請する必要があった。
となると、突発的な「今日は〇〇の家で遊ぼう」といった約束に参加できなくなる。
そういった日の翌日は辛いものがあった。


⑶ 沈黙の帰り道

私以外の三人は、アニメを観るのも好きだった。

彼女たちが好きだったのは『ハヤテのごとく!』や『銀魂』であった。
帰り道はいつもアニメの話をしていた。

私はといえば母に禁じられて、『世界ふしぎ発見!』と大河ドラマ以外は観られないのである。
三人の会話に混ざることなどできるはずもなかった。

一度、コナンの映画を一緒に観に行かないかと誘われたことがある。
私は誘ってくれたことが嬉しくて、どうにかして行ってみたいと思った。
コナンのアニメは観たことがなかったが、通っていた美容院に漫画が置いてあり、貪るように読んでいたのだ。

けれども母は首を縦に振らなかった。
映画館は危険であるということと、あみ子には怖すぎるという理由で。
祖母のお隣さんが若い頃に一人で映画館に行ったところ、隣に座った見知らぬ男性が手を握ってきたという事件が記憶に強く残っており、映画館=危険な場所という方程式が成り立っているようだった。
また、私は幼い頃に『千と千尋の神隠し』を映画館で観た時に、怖くて鼻血を出したことがあり、コナンなぞ観たら同じことを繰り返すと考えているようだった。

コナンの映画は私抜きで行ったようだった。

アニメを観てみたいと母に言ったことがある。
「アニメについてしか話すことがないなんておかしい。合わせてアニメを観るのではなくて自分が話題を提供しなきゃ」
許可が下りるわけがなかった。

三対一で、母によって作り上げられた狭い世界しか知らない人間が話題を提供することは無理だった。

私は下校の最中は、三人の後ろでうつむきながら黙々と歩くようになった。
それでも三人のことは大好きだったから、三人を奪っていったアニメが憎かった。


⑷ 悪化

6年生の中頃に、Bが海外へ引っ越すこととなった。

お別れ会の企画として、Bのリクエストでディズニーランドへ行こうという話が持ち上がった。

Bとは一番家が近く、かなり仲の良い相手であったため、流石に一緒に行かれるだろうと確信していた。

けれども母はディズニーが嫌いで、「あんなところ、小学生が行く場所じゃない」と言った。
まだ早すぎるというのだ。
BかCの親が引率するということになってはいたが、頑として譲らなかった。

「小学校の友達なんて、一生の友達にはならない。私は小学生時代の友達とはもう連絡を取り合っていないし、一生の友達は高校や大学で出会うものだ」
「あみ子が行かれないと言ったら、他の場所になるんじゃないの」

こんな説得をされた。ショックすぎて鮮明に覚えている。

小学生の子どもが、親友と呼べる相手(少なくともBに関してはそう呼んでもいいと今でも思っている)と会えなくなることを泣きながら悲しんでいるのに、そんなことをよく言えたものである。
確かに話には混ざれなくて孤独を感じてはいたが、それはアニメも漫画もゲームもないこの環境がいけないのだと私はわかっていたから、三人のことをそう冷たく評価できる母が信じられなかった。
(母にどんな立場でいるかを相談することはできなかった。三人の悪口を言うみたいで気分が悪かったし、相談したところで母は私の方を否定するようなことしか言わないとわかっていたからだ。崖のへりにやっとの事でぶら下がっている人間が助けを求めたとしたら、まずそんな状況に陥った相手を馬鹿にし、けなし、崖の縁を掴む手を踏みつけるような性格なのだ)

お別れ会の主役のBが行きたいと言っているのだから、場所が変えられるはずもない。
私はすっかり慣れっこになったセリフを皆に言った。
「私は親が許可してくれないから行かれないわ。私のことは考えずにみんなで楽しんできて」

三人は存分に夢の国を楽しんだようだった。


⑸ どん底

Bがいなくなって、ますます私はグループ内で孤立した。
四人組でいる時私は孤立しがちであったが、Bは時折私に話を振ったり、二人で別の話をしたりしてくれた。

だからこそ私にとってBは特別な存在だった。

AとCは楽しそうにアニメの話をしていて、私は完全にのけ者だった。

半年ほどそんな状況が続き、卒業の頃には私の中には一つの考えが生まれていた。

「友達を作ってしまったからこんなに悲しい思いをすることになるんだ。友達を作らずにいれば、話が合わなくて辛いこともなく、一緒に遊びにいけなくて置いてけぼりにされることもない。最初からひとりぼっちでいれば良いのだ。中学では友達なんて作らない。友達なんていらない」

自分の殻に閉じこもっていた、と言えばまあまあ綺麗に聞こえるかもしれないが、実のところは自暴自棄であったと言えるだろう。
「友達がいなければ」の部分は時折「生きていなければ」に置き換えられた。


卒業アルバムの最後のページには、友人たちから寄せ書きを書いてもらうページがある。
AとCにも書いてもらうことができたが、Cのコメントを見てふと疑問が浮かんだ。
そこには「大×10000000000親友〜!」と書いてあった。はて、私たちは大×10000000000親友だっただろうか、と考え込んでしまった。
確かに毎日一緒にいたけれども、一緒にはいなかった。
私だけ同じ場所にはいられなかった。

きっと三人とも、私の気持ちには気づいてはいない。
嫌われていたのかもしれないし、その場合は私の感じた孤独は知っていただろうし、それは彼女たちが望んだ結果だろう。
しかし、どんなに混ざることができなくとも、私が三人のことが大好きで、大好きだから話ができなくても一緒にいたかったことは知り得まい。
三人とも、大好き。一緒に過ごしてくれてありがとう。


ぼろっぼろに泣きながら書いたから校正ができておりません。
同じ表現とか繰り返されてても目をつぶってね。

また次回お会いしましょう。

小学校編⑧↓


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