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【随筆】文章を書くことのススメ

「文章を書くこと」と「ボールを投げること」とは類似関係にあると思う。
人間としてうまれてから、普通に成長し教育を受ければ、文章を書くことやボールを投げることは誰にでもそれなりにできる。(ただし、知的、身体的障がい者を除いて。)そして、どちらも「上手くなるコツ」があり、また上手くなるにはそれなりの「修練」を必要とする。

 文章を書くことには、多くの著名な作家が「文章読本」なるものを出している通り、「上手くなるコツ」は存在しそれは様々である。また、文章を書いてそれを推敲し、また文章を書いてそれを推敲し…の「修練」をしないと文章は上手く書けるようにはならない、ということは皆さんの経験上、共感していただけると思う。
 以上のことは、ボールを投げることに関しても同様である。が、今回は「文章を書くこと」を主題としているので、詳細は割愛する。

 また、どちらもある目的に対する手段でしかない、という点において類似している。文章を書くことは、誰かに自分の考えや思いなど伝えたいことをまとまった形で伝える手段にすぎず、また、ボールを投げることは遠くにいる相手にボールを渡す手段にすぎない。
 そして、どちらも生きていく上でできなくても困らない。現代の日本において文章を書くことができないのは相当困るが、識字率が向上したのは近代以降であり、また、発展途上国では現在でも文章を書くことができない人たちが多数いる。近代以前の先進国、かつ現代までの発展途上国の人たちは文章を書くことができないなかで生きてきたし、生きていくことができた。(ボールを投げることができなくても生きていく上で困らないのは自明のことである。)

 そこが、人間において「書くこと」と「話すこと」との違いのひとつである。発声障害をもっていて話すことができずに生きている人はもちろんいるが、多数の人が話すことができない共同体は存在しない。言い過ぎではあるかもしれないが、人間は話す生物である、といってもいいかもしれない。歴史を考えてみても、コミュニケーションは書くことよりも話すことがまず先にあった。

 では、ここで文章を書くことがボールを投げることに類似しているとしたら、「言葉を話すこと」は何と類似しているだろうか。私は「歩くこと」であると思う。
 人間は歩かずに生活はできないし、歩くことが生物学上、人間を特徴づけているところがある。それは言葉を話すことも同様である。

 書くことー投げること、話すことー歩くこと、という並立の関係ができた。ここから一歩先に進みたい。それは「遊戯性」についてである。
 どちらの関係にも遊戯性はある。だが、書くことー投げることの関係に関しては、「ある程度上手くなければ」楽しむことができない。
 話すことに関しては、上手くなくても同じレベルの友達と話せばそれなりに楽しい。話すことを仕事にしている人は上手く話す修練を積むかもしれないが、それ以外の人たちは人と楽しく話すために何か努力をすることは少ない。歩くことに関しても、散歩を楽しみにしている人は古くから多く、これは誰にでもできる「遊び」である。歩く練習をする人はランウェイを歩くモデルさんくらいである。
 一方、書くことは上手くなければ楽しめない。小説やエッセイを書こうとしても、全く技術が無ければ、書けたとしてもその文章は駄文でしかなく、つまらない。投げることも同じである。キャッチボールという遊びに関しても、お互いキャッチボールが成立する程度に投げる技術がなければ楽しめない。

 ここで、書くことの遊戯性に関していくつか異論があるかもしれない。例えば、小学生のように文章の技術があまりない人のなかでも作文を楽しみに書いている人がいるではないか、という声もあるかもしれない。が、それは小学生という未発達な時期であるからで、大人が小学生のレベルの文章を書いても楽しくはないだろう。また、文章を書くことが上手くなくても日記やXなどのSNSを楽しみにしている人がいるではないか、という声もあるかもしれない。が、それらはどちらかというと「言葉を発露」する場であり、確かに書いてはいるが「話すこと」に近い。(もちろん、「文章を書く」場として日記やXなどのSNSを活用している人がいるのは承知している。)よって、それらは書くことが上手くなくても楽しめると思う。

 以上より、文章を書くことにはある程度技術がないと楽しめないことを納得していただけたかと思う。だが、だからといって文章を書くことから距離を置かないでほしい。だって、文章を書くのは楽しいのだから。
 逆に、簡単に楽しめないことだからこそより楽しいのではないか、と言えると思う。実際、みんなが野球選手みたいにボールを投げれるようになったら、野球はつまらないものに成り下がるだろう。

 以前、知人が「読書は大好きでよく本を読むんだけど、文章を書こうという気は起こらない」のようなことを言っていた。私は少し悲しくなった。読書をたくさんしてきたことで多くの言葉を知り、多くの素晴らしい文章に触れてきたはずなのに、それを文章を書くことに活かさないのはもったいない。
 一刀斎こと森毅氏は自著「まちがったっていいじゃないか」で中学生の年代に向けて次のように述べている。

 もっとも、本を読んでるばかりでなく、自分でも、なにか書いてみた方が良い。話を聞かされてばかりでは、受け身にすぎる。
 この場合も、気楽にやった方が、いいように思う。さしあたり、自分のために、自分が気に入る文章を書いてみるのが、楽しみなものだ。
(中略)
 ただし、ことばというものは、自分が形をとるのには、とても役に立つ。べつに、書かなくても、おしゃべりするだけでもよいのだが、文章に書くとそれを見ることができるので、楽しみも多い。
(中略)
 ともかく、ことばなんてのは、なによりも、自分が楽しむためにあるんだ。

森毅「まちがったっていいじゃないか」、ちくま文庫、1988、p.190

 森毅氏は本書で、書くことは楽しいということを強調している。実際、森毅氏は専門の数学の本からエッセイまで幅広い分野で非常に多くの著作を残した。それは、自身が文章を書く楽しみを身に染みて分かっていた結果だろう。

 文章を書くのが上手くないと思っている人も、まずは森毅氏が言っている通り、「気楽に」「自分が気に入るように」書いてみることから始めるのがいいと思う。最初は下手で当然である。下手なフォームなりに相手にボールが届くのを目指して、まずは書いてみてほしい。必ず楽しさを感じると思う。
 文章を書くことほど楽しいことはない、と個人的に思っている。文章を書くことで何か得られるものもあるかもしれないが、それを得てほしいがために文章を書くことを勧めているわけではない。ただただ「楽しい」と感じているから、多くの人に、そして「文章を書こうという気が起こらない」と言った知人にも、文章を書いてみてほしいのである。


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