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時間遅れの初海外女1人旅 ~イタリア・フランス~ 2000年9月

わたしが初の女海外1人旅をしたのは、32歳の時。

会社員になって10年目の、リフレッシュ休暇がきっかけだった。

わたしが勤めていた会社では、入社10年目に、5日間の連続したお休みがもらえる。だから、有給休暇と週末をつなげて、ちょっと遅めの夏休みを11日間とった。

今までは違う会社にいる大学時代の友人と海外には行っていたのだが、予定を合わすのは難しく、行きたい場所もかなりマニアックな場所だったので、思い切って1人で海外に行ってみることに。

語学力もないし、シャイだし、行く前はかなりナーバスになったけれど、海外に行ってみたら、大変だけど面白いことに気づき、すっかり海外女1人旅にハマってしまった。

わたしがはじめての海外1人旅に選んだのは、ミラノ→マントン→ヴィルフランシュ・シュル・メール→ニース(日帰りで、エズ、モナコ、ヴァンス)→パリというルートである。

なぜ、マントン→ヴィルフランシュ・シュル・メールという超マニアックな旅行先を選んだかというと、会社に通いながら、セツ・モード・セミナーという絵の学校の夜間部に以前通っていた経験が大きい。

セツ・モード・セミナーは、長沢節先生が校長をつとめ、有名なファッションデザイナーやイラストレーターを何名も輩出した、伝説の専修学校だ。急な階段を下りた先にある、蔦のからまる校舎は、パリのモンマルトルにあっても違和感がない感じだった。

単調なOL生活が合っていなかったわたしは、刺激を求め、週3回、仕事帰りに夜間部に通っていた。

セツ・モード・セミナーは、そのころ人気が高くて、倍率が5-6倍はあったと思う。

抽選用の箱に入った数字付きのプレートをひくと入学できたのだが、わたしは5回目でやっと入学できた。ちなみに、プレートは数字部分が出っ張っていたようで、その部分を触ってからひく人もいたよう。わたしは馬鹿正直なので、そういう発想は思い浮かばなかった。

セツ・モード・セミナーでは、ヨーロッパ3週間スケッチ旅行を毎年開催していたのだが、会社を辞めないと3週間なんて、とても休めず、行けずじまいだった。

スケッチ旅行の定宿がヴィルフランシュ・シュル・メールのウエルカムホテルだったので、思い切って1人で行ってみることにしたのだ。
そして、現地でスケッチしたり、クロッキーしたりしようとも決めていた。

パリとヴィルフランシュ・シュル・メールのある南仏だけを周る方法もあったのだけれど、ミラノからニースまでは電車が通っていることを知ったので、思い切って電車で行ってみることにした。

まずは、「地球の歩き方」を買って情報収集。
はじめてだったので、フランスに強い旅行会社に航空券やホテルのアレンジをお願いした。

トーマスクック(2019年に破綻)の時刻表を買ったり、本屋でフランス関連の本を購入したり、御茶ノ水にあるフランス語学校・アテネ・フランセで3ヶ月フランス語を習ったり(結構形から入るタイプなので、自分の好きな学校を選んでいった)、テレビでイタリア語を勉強したり、事前準備はいろいろした。

今(2020年6月現在)だったら、Googleマップのストリートビューもチェックしたかもしれない。

もちろん、海外で危険を避けるにはどうしたら良いのかという情報もチェックした。何といっても、頼りになるのは自分1人なので。
(旅行会社のサポートデスクはあったけれど)

射手座なのが関係しているのか、昔から海外は好きなので、どこに泊まろう、どこへ行こう、と考えるのは、とても楽しかった。

そして、準備が終わり、わたしは1人、旅だった。
まさか、初日の宿がダブルブッキングで取れていない、なんてことも知らずに。

ミラノ中央駅に到着したのは、夕方17時ころ。
8月の終わりだったから、まだ陽は高い位置にあったけれど、早くホテルに行かないと、と徒歩数分のホテルに焦りながら到着。

カウンター近くにいたおじさん(オーナー?)はとてもフレンドリーで、携帯に貼っていた日本人女性客のプリクラを見せながら、彼女たちはとても良い子だったから、日本人が好きだと熱弁していた。
わたしはカウンターでチェックインをしようとしたが、カウンターの人が予約はされていないと言う。

中学生レベルの英語力しかなく、携帯用の辞書片手に、何とか予約はしているはず、ということを伝えようとしたが無理だったので、カウンター横にあった電話ボックスから旅行会社のサポートデスクに電話し、電話で交渉してもらった。

おじさんの表情は見る見るうちに曇っていき、わたしたちは間違っていない!と怒りをあらわにしていた。
結局、サポートデスクが交渉したお陰で、代わりのホテルを予約してもらえ、タクシーも呼んでもらえたが、去り際に「明日の8時にここに来なさい!」とけんか腰で言われた。

翌日は昼の12時にミラノを出なければならず、急いで観光する必要があったから、寄るつもりはなかったけれど、つい「yes」と言ってしまった。
断ったら、余計怒りそうだったし、そのころはなかなか「No」ということができなかったので。

翌日におじさんがもっと怒りそうなことと日本人の評判が下がることの心配はしたが、これ以上不愉快な思いはしたくなかったのだ。

今では、1人旅でハプニングが起こっても何とかしてやる、という気持ちを持っているが、あのころはまだまだそんな余裕はなかった。

しかし、これに懲りて、これ以降の旅では、サポートデスクは通さずに、拙い英語力でも自分で交渉するようになる。自分で対応しないと、相手にとっても失礼だと思うので。

翌日は、まずタクシーで中心部のドゥォーモまで向かった。時間はあまりなかったが、やはりミラノに行ったら、ミラノを代表する建物は見ておきたい。

正面の三角っぽい形と尖塔が特徴のドゥォーモ。ルキノ・ヴィスコンティ監督作「若者のすべて」という映画に、ドゥォーモの屋上が出てきたので、ぜひ昇ってみたいと思ったのだ。

隣接する、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア内の本屋とデパート・ラ・リナシェンテに立ち寄ったら、ミラノの時間は終了。そのまま、ミラノ中央駅へ。

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ミラノ中央駅には、時間に余裕を持って、1時間前くらいに到着。キオスクで買ったお菓子を食べながら、電光掲示板に列車の時刻が表示されるのを待った。

ホームの番号が表示されてからしばらく経ち、トイレから帰ってきたらホームに電車が到着していたので向かってみると、コンパートメントタイプの車両には、誰もいない。

もう1人、同じホームにやってきたドイツ人男性(「どこから来たの?」と聞かれて、代わりに教えてもらった)と「この車両じゃないね」と顔を見合わせた後、隣のホームを見ると、電車が入ってきていた。「Next!」と叫び、ソフトスーツケースを引きずりつつ、走って隣のホームへ。発車まで、もう10分も時間がない。

いったん電光掲示板の位置まで戻ったら、電光掲示板に表示されたホーム番号が変わっていることに気づいた。

急いで電車に乗り込むと、車内はすし詰め状態。何とか、通路にあった補助席に座ることができた。電車は、定刻通りに、音もなく発車する。

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