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愛しの日々

コロナ禍を収束させようとする周囲の空気を感じています。娘の小学校の入学式が執り行われた4月から、今日までのことを振り返ってみると、なんとも異常な日々だったなと改めて思います。

娘は趣味が「友達作り」と言っても過言ではないくらい、友達と遊ぶことを求めています。もちろん姉妹がいればまた違ったのでしょうが、私の持病の薬の影響などもあるので、二人目を作る予定はございません。娘はどうしてママにはコウノトリさんが来ないんだろう?と何度も何度も言っていて、その度に心が痛み、でも本当のことは言えずに、今に至ります。私もどれだけ赤ちゃんを抱きたいと思ったかわかりませんし、娘に弟か妹がいたらどんなに喜ぶだろうかと何度も考えました。それで、薬をどうにかできないかと試行錯誤をしましたが、やはりうまくいきませんでした。

昔からちっとも人見知りをしない娘は、公園に行くと年頃に近い子どもに「一緒に遊ぼ」と声をかけます。それであっという間に親を置いてけぼりにして、子どもワールドを作り始めるので大したもんだなといつも感心します。それで、暇なのでずっとスマホを見たり、蚊に刺されないようにちょっと動いたりしながら、私ら親は、ボヤーッとしていることしかできません。

でもこのコロナ禍では、娘が待ち遠しく思っていた小学校生活も、学童も、習い事も、おおよそ他人と関わることは全て封じられてしまいました。その代わり、IT業の夫は自宅で作業、私はもともと家で仕事なので在宅勤務、娘もほぼずっと家にいて、4月からの2ヶ月半くらいの時間は家族三人と愛犬のみみ子と、未だかつてないほど長い時間を共に過ごしました。

医療従事者の方達やどうしても外で働かねばならなかった人たち、スーパーの店員さんや薬局の店員さん、保育園の先生たち、他色々な方達には本当に頭が上がりません。またこのコロナ禍を過ごした妊婦さんや受験生の皆さん、高齢者の方達、持病のある方達、本当にどれほど辛く厳しい日々だったか、一個人の想像の範囲には収まりきらない苦労があったと思います。コロナ禍ではそれぞれの立場により捉え方が変容し、仕事の無くなってしまった友人や、なお忙しくなった友人のことを考えずにはいられない毎日でした。

と、クッションをいれたところで、ご批判もあるかもしれませんが、私個人の今日までの日々を少しお話しさせていただきたいと思います。

まず、出産してから、今まで一度も、こんなに家族で一緒にいた時間はありませんでした。出産直後、夫の帰宅は24時過ぎ、娘と会うこともなく、朝早くまた仕事に行く生活でした。わたしが体調を崩してからは、家で作業してくれる日々がありましたが、夫は自分がどのような境遇に置かれているのか、話してはくれませんでした。というか、仕事の話を一切家ではしないので、何がどうなってるか、全くわたしはわかりませんでした。ですが、わたしが昔働いていた職場でもあるので、おそらく、大変なご迷惑をおかけしているのであろうことは、想像がつきました。
娘はわたしの病気や仕事のこともあり、早々に保育園に預けられました。一歳になってすぐです。朝10時から夕方5時半頃までずっと預けておりました。6歳までです。私は体調が良くなってからは、ほとんどの時間を家でみみ子と二人で過ごしました。外出は、取材の時ぐらいで、ほぼずっと無言で家で仕事をしていました。

ですが、このコロナ騒動が起き、2ヶ月もの間、家族だけで長い時間を過ごすことができました。仕事はもちろんやりつつでしたが、罪悪感無しに娘と夫と一緒に居られることにかつてないほどの幸福感を感じていました。

娘はピアノを習っていたりチアリーダーの習い事をしていたり、英会話の習い事をしていたり、さらには公文の宿題がどっさり出ていたりととにかく忙しそうでしたが、仕事が多忙な傍、夫が面倒を見てくれました。どう考えても私の方が暇なのに、夫は時間割を組み、1時間目のファイル、10時のおやつを挟んで、2時間目のファイル、昼食、それから多少の運動時間、3時のおやつ、自転車・縄跳びの練習、そうして午後五時くらいに娘はやっと自由に遊べる…といった感じでした。こう書いてみると、なかなか厳しいスケジュールですね。最初の頃、私も授業をやりたい!と手を挙げたのですが「今日はもう無理だから木曜日ね」と、二日先まで娘の時間割は綿密に組まれている様子だったので、立ち入るのをやめました。

一度だけ、音楽の授業でもやったら楽しいかなと思って、「ボブ・マーレイ先生来日」としてカツラを被ってサングラスをかけて、音楽の授業をやってみましたが、容姿のアホさ加減からか、娘にせっかく用意した楽譜をグシャグシャにされ、カツラとサングラスを取られるなどの暴行の被害にあったのでもう2度とやるまいと思いました。それからはもう夫に全て任せることにしました。

夫の授業はみちみちに詰まっている、とは言え、1時間目のファイルなんてさっさと終わらせてしまうので、空いた時間に娘はどうぶつの森をやっていました。思われているより自由です。Switchは三年くらい前に手に入れていたので、今の品切れ状況をみると、入手しておいて本当によかったと思います。娘の「コミュニケーションとりたい欲」を満たすために、私はSNSで年頃の近いこで娘と一緒に遊んでくれる子はおりませんか?と呼びかけ、すると5.6人の有志が募りました。これが本当にありがたく、プレイ状況はリビングでなのでほぼずっと横目で監視するような形になってしまったのですが、オンラインになってもやることはだいたいリアルでの人間関係と同じ…。「おかあさんごこしよ」と、ひらがなでやり取りをするのです。すると相手の子も「いいよ」と。それでエプロンに着替えたり、「はやくねなさい」とか言い合ったり、本当に可愛らしいのです。時には男の子の島に女の子二人で乗り込んで、島の主をさし置き「おかあさんごこしよ」となり、男の子が自主的に「おひらき」機能を使い解散させるということもありました。文字だけのやり取りには無理があるなwと感じつつも、なんかその辺りも含めて子どもたちのやり取りの全てを愛おしく感じました。

家族三人と愛犬みみ子で過ごす時間は貴重すぎて、昼ごはんも夜ご飯も赤とか黄色とか緑とかをふんだんに使い、カラフルに気合いを入れて作りました。本当に楽しかったです。21時過ぎに娘と夫は寝ますので、それ以降は、前回あたりに書いた通り、赤ワインを飲みながらヘッドフォンをつけてファイナルファンタジー7リメイクをプレイしました。私はあまり遅くまで起きていることが不可能なので、どんなに遅くても24時には寝ていましたが、これがまた楽しかったです。

たわいもない話をし、手を洗い、抱きしめ、少しだけお散歩したり、みみ子のことをみんなで可愛がったり、絵を描いたり、ゲームしたり…
何時間一緒にいたのでしょうか。わたしが求めていたのはこんな日々だったのではないかと、上記に述べた、大変だった方々にはとてと真正面から言える気がしませんが、本当にそう思いました。夫は厳しくも優しく、娘を突き放さず、いや、時には突き放していた気もしますが、勉強を教え、遊ぶ時は笑顔で遊び、今日もなんて幸せだったんだ、と、布団に入ってから何度か泣きそうになりました。

娘はこの自粛期間中に自転車の補助輪が外れました。夫が甲斐甲斐しく、面倒を見てくれたおかげです。わたしにはとてもできなかったと思います。怖がりな娘の心に共感してしまい、補助輪を外した自転車にただまたがり、一歩も動けないで泣いている娘のそばで、「今日はそれでいいんだよ」とただ、横で座っていました。夫は、スパルタのように、毎日5時過ぎに娘を外に連れ出し、自転車に乗せました。ある日、「大変だ!お母さんすぐ外に出て!」と言われて、怪我でもしたのかと慌てて飛び出したら、補助輪の取れた自転車でゆっくりと走行する娘の姿がそこにありました。わたしは嬉しくて、飛び上がって喜びました。もう、それだけで充分でした。それだけで良いと思いました。

そして、今日、夫も娘も外出して行きました。夫は仕事へ。娘は学童、学校、英会話です。いやぁ、大変だなー。私は一年生の時、遊んでしかいませんでしたが、娘は、学校からは毎日宿題が出て、かつ、習い事も多いので、私には辛そうに見えるのですが、今日の6時過ぎにみみ子を連れて英会話教室へ迎えに行きましたら、みみ子を引っ張って率先して走っていました。元気。私が同じスケジュールをこなしたら復帰に3日はかかりそうです。子どもの体力、みくびるべからず。とにかく、今日はみみ子と二人、家でシンとした中過ごしました。仕事が忙しかったのでまだ気が紛れたけど、寂しかったなー!

もうこれからきっと、娘とあんなに一緒に居れることはないんでしょうね。どんどん成長して、どんどん家族から離れていくんですね。またこんなことが起きることはもちろん望んでいませんけど、私の中では宝物のような日々でした。という話を忘れないでいたかったので書きました。

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