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晴れか曇り

少し前のこと。高橋健太郎著『ヘッドフォン・ガール』を読んだ。出版社のアルテスパブリッシングが以前住んでいた場所に近かったり、東京に住み始めて最初の場所が物語に登場する中野だったり、国立は首くくり栲象さんが住んでいたから、駅のそばでお土産の餃子とビールを買って庭劇場に向かう道はいつも植物の匂いがした、と、点と線以上、ぼんやりと面の経験を呼び起こしながら読んでいた。どこかで”自分に関わりのある物語”であってほしいと、その符号・符牒を探して読んでしまったのだろう。
自分の物語であってほしい、というのは誰にも共通する心情だろうか。

何年ぐらい前だったか、おそらく2007年ぐらいのことだったと思う。山手線、新宿駅か代々木駅だったと思う。何かの理由で長めの停車をしていたとき、車両に西日が降り注いで、光、空気、空気中の埃の乱反射、黄砂に巻き込まれたかのように視界が黄土色のフィルターを1枚噛んだ情景に放り込まれた。子どもの頃に観たテレビドラマの中の、あの作られた照明の、けれどあの時代の空気感、光を受けてガラス玉みたいに転げる主人公の瞳、方程式のエレメンツが私の車両に過不足なく嵌って、思わず私は「ああ、そういうことだったのか。あの世界は、この都市にしか存在しえない光ということだったのか、ここにあったのか」と、声に出して呟くぐらい納得して、怖くなった。デイドリームと呼ぶにはあまりにも光の肉感が現実味を持ちすぎていた。
あれはタイムリープだったと思う。

”わたし「も」そうです”を
お互い知らないまま生きて、死ぬ

自分から進んで物語との共通点を探し、自分と紐づけようとする”人情”と、ふいに”現実の書き割り”に放り込まれて自分も登場人物どころか小道具にさせられてしまうような逢魔が時の光と、そのどちらも自意識のなせる業だろうか。そうだとしても「私もそうです」と微笑み合うのが好きだ。

生前、演出家の森田雄三さんは言った。
「卒業写真を配られるとさ、自分の顔を真っ先に見に行くでしょ?あとは、好きな子のページとか。そんなもんなの。自分のことしか気にしてないの。でね、みんな大体そんなもんなんだ、隣の奴もそうやって自分の顔のページを見てる、その程度、…ってことをお互い一生知らずに生きていくことの方が多いんだよ。すぐ隣に居るのに。
レイ・ブラッドベリの言葉と対になるようなこと言う、森田さんは。

数年前に「晴と雲(はれ と くもり)」という作品を制作・展示したことがある。おそらく、森田さんのこの言葉が頭のどこかに残っていたのだと思う。そこから芽が伸びたというか。
この作品は対になっており、絵を施した紙風船のような立体。

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膨らませて中をのぞくと、

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底面に文字が書かれている。                     
晴天のほうには、                          

すべての
人が
この快晴を
自分のためだと
思う

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曇天には、                             
すべての
人が
この曇天を
自分の運命だと
思う

と記されている。
一体、誰のどんな手が、私たちの人生を握っているというのか。
全ては偶然で、それをどう読みたいかの問題に過ぎないと、思う。

あの列車事故と目が合う

『ヘッドフォン・ガール』を「よし、読んでみよう」と手に取った理由は、この方のnoteに出くわしたからだった。

録音芸術としての音楽を聴くことそのものが「SF」であるといったら言い過ぎでしょうか。

と、この文章は結ばれる。
…、…?...!...!!!!
それって、『ニューロマンサー』じゃないか!

私の(相方の)記憶が確かならば『ニューロマンサー』の著者ウィリアム・ギブソンが当時住んでいたアパートの1階がオーディオショップか何かで、そこでウォークマンをもらい(買い?)、ヘッドフォンから聞こえる音楽を携えて街を歩いた経験が、この小説の誕生に関わっていた、はず。俄然『ヘッドフォン・ガール』を読もうと思い立つ。

読み進めてみると、音楽は死者に混じること、死者になること、生死の定義から解き放たれること、それらは至極恋に似ているということ、に尽きる。そして、他者の言説の中に音に対する自分の考えを担保してもらったような言葉を見つけて、そうか、と思う。

この物語の終盤に電車の脱線事故の場面が出てくる。中目黒の脱線事故。
物語の設定では2000年11月29日。
2000年3月8日の事故を彷彿とさせる。あの日私は代官山の友人の家に泊まっていて、怠惰ゆえに朝早くから動くことをしなかった。のろのろと準備していなかったら、とりあえず中目黒駅へ歩き、ラッシュの隙間を狙ってその電車に乗っていたかもしれない。テレビのニュース画面と、窓から見える電車や人だかりを交互に見て、体温が下がっていくのを感じた。
『ヘッドフォン・ガール』の終盤、主人公に”乗った”私は、彼の身体を借りて限りなく事実に近い車両に乗り、本の中からそれを読む私と目を合わせた。

…などと、きっと「晴」や「雲」や卒業写真のように思いたかっただけだと、思う。これまでに無い在り方で、集中できない読書経験だった。本の中と外とを同時に聞き、頭の中をサーチライトで絶えず照らして探すような時間だった。

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