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2、すずらん


はじめて自分だけのものを持ったのは幼稚園の頃だった。

 それらは個人マークとして、違った種類が園児ひとりひとりに与えられた。歓喜の表情に溢れた園内で、四歳だった私も例外ではなく、ソレが自分の特別だということはすぐに理解できた。

 私だけのコップ、鉛筆、歯ブラシ全てにソレのシールを貼ってみると彼らは私にだけ懐いているようにみえた。
 つまらない集会の時間も、上履きの先にいるソレは私を満たした。

 しかしながら華やかな恋は一時のこと、素朴なソレは年長の女のはさみにも住みついていたのだ。頭が真っ白になった。

 そこからは一瞬である。
瞬く間に女のはさみを取り上げては髪を引っ張り上げ、大声で泣き散らした。泣き散らしたというのは本当に泣いて、散らした、主に鼻水を。女が泣いたりしなかったのが尚更手のひらの力を一層強くした気がした。
ソレは、申し訳なさそうに私の手を撫でるように触れた。


 憶測ばかりする私が現れた頃には、もう小学生になっていた。

 友が朗報を持ってきたのは小学一年生の頃だったと思う。どこからこんな吉報を仕入れてきたのか、この世界には誕生花というものが存在するらしい。

 自分が生まれた特別な日の特別な花。
シクラメン、シンビジューム、スイートピー、サフラン。
もちろん彼らを特別無条件で愛でていたし、誕生花という言葉を知っている自分がとても誇らしくもあった。

 誕生花というロマンチックな言葉を連れてきた友が、次は花言葉という素晴らしい神話を聞かせてくれた。どうやら花一つひとつに語られているらしく、学校が終わるとすぐに町の図書館に探しに出かけた。本が魅せてくれた世界は、見たことも聞いたこともないような言葉がたくさん並んでいてほのかな喜びと不安がそこには存在した。ページをめくる度に聡明になれた気がして、まるで世界に遠慮などなかったみたいだった。

 過度を慎めとはこのことである。
朗報運びの友がどうやら学校に対しても内気な態度を取るつもりらしい。母は「風邪を引いたりはしていないけど心の元気がないのよ」と私に気後れしたような顔で微笑んで見せたのが忘れられず、私は毎日のように朗報運びの友の家へプリントを届けに歩いた。
先生は大切なことは何度も口にする。
過度を慎めとはこのことである。

 久しく見た陰気臭い顔は下手な笑い声と、私と人間との間に入るような見えない壁を連れて登校してきた。
共にたくさんの世界をめくってきたつもりだったのに別離の言葉は知らなかった。



いつも朗報を運んでくれた友は、見えなくなった。

足先を見つめる。

「あなたはとってもコウキでビジンよ」

私の相棒も務める多忙な薄情者。

返事は返ってこない。

「正しいことは人を傷つけるのよ。」

 精一杯の優しさを込めて。

新たな門出、優しい思い出に微笑むようにソレは揺れていた。

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