ぐらしあすの「あるがまま論」

人はよく「自分のあるがままでいいんだよ」とか「自分のあるがままを認めることが大事」などと言うが、現状に何か不完全燃焼でメラメラと燃えていない実際の自分と「こうでありたい」という自分とのギャップこそが自分をくるしめているのではないだろうか。過去記事の中で「入院森田療法」の話があるが、それこそ「あるがまま」を大事にする療法で、ぐらしあすは入院中ずっと「あるがままあるがまま」と心の中で呪文を唱えるが如く日々を過ごしていた。入院中は毎日夜に、その日の出来事や自分が出来たことなどを日記として書き、それにたいして主治医が翌日に、コメントをつけてかえしてくれた。そこには「症状に対して一喜一憂している間はまだまだです」と書いてあった。ぐらしあすの場合は、入院中現状を認めようと試みるも認められない自分はいったいどうすればいいんだ。このまま入院が続けば「あるがまま」の自分になれて、人前でもあがらずに顔も赤くならずになれるのだろうかという疑問も持っていた。つまり期待と疑問である。入院森田療法を受けてもう約20年になる。森田療法を受けてから何年か経って、森田療法が言わんとしていることがわかったような気がする。つまり、今から見て、過去に上司とけんかしたことや、他人の前で顔が赤くなってはずかしかったことが、今となっては思いのほかちっぽけなもので、あの時はこうしていればよかったんだ、或はあんなことしなければよかったのにという振り返りが出来、そこでようやく「その時の自分のあるがまま」を見ることが出来るのではないかと。そうすると今現在の葛藤は、あと何年か経ってから振り返った時に「その時の自分のあるがまま」として消化されるのではないだろうか。つまり「あるがまま」というのは人生のプロセスの中で、後から自分を追いかけてくる、或は自分が先に行ってから引っ張ってくるものではないだろうか。そう考えると、森田療法でいう「今全力を尽くすのみ」という言葉の説明がつく。その時期はひとそれぞれである。今現在、森田療法を否定も肯定もせず中立的に見ている。でも、あの時に入院森田療法を受けたことは貴重な体験だったと思う。

ディプレッションまっさかり。ぐらしあすの「こころの声」を中心に、自分が体験したことや、時折感じる何のエビデンスもない、主観の記事も徒然に書いていきたいとおもいます。よろしくおねがいします。