ぐらしあすの「生きづらい環境は自ら形作っているのではないだろうか」

ぐらしあすは、以前に同業者の人からこんなことを言われた。
「ぐらしあすはAの職場に行くか、Bの職場に行くかの選択を誤る」と。

また、ある公的機関の関係者からもこう言われた。
「ぐらしあすさんはよくがんばっているのに、行く職場行く職場で苦労する」と。

当時は自分でも、そういう傾向があるな(苦労するのは職場の人間関係や環境が悪いのだ。そうだ、そのせいだ。)と他罰的思考傾向が強かった。

しかし、今振り返って考えてみたら、上述の「AかBかの選択の問題…」…
違うのだ、Aに行ってもBに行っても結局のところ、そこの環境に順応できないだけだったのだと思う。
環境を自分らしく形作っていくのが苦手で、その形がいびつとなり、時間の経過に比例するかの如くいびつさがさらにいびつさを生んでいく。

そのいびつさを自ら作り出す癖は「偏った正義感」に由来する。
特に上司の考えや行動が、自らの考えや行動と異なる場合、対決する。
必ずと言っていいほど対決してしまう。
これは「権力というもの」に対する反発なのだろうか。

さらに踏み込んで洞察してみると「権力を渇望」しているのかもしれない。
手に入れる術に立ち向かうことが出来ない勇気のなさから、「反権力」と謳い自らを正当化しているのかもしれない。

まさに「偏った正義感」…真はその裏側に存在するのかもしれない。

そんなぐらしあすがもし「権力」を持てば、弱きものの立場に同一目線でたつことができるであろうか。寄り添うことができるのだろうか。

ぐらしあすのこころの中にはそんなアンビバレントな感情があるのだろうと最近つくづくつ考えるようになってきた。

自分を知るという「自己覚知」これほど難しいものはない。

ディプレッションまっさかり。ぐらしあすの「こころの声」を中心に、自分が体験したことや、時折感じる何のエビデンスもない、主観の記事も徒然に書いていきたいとおもいます。よろしくおねがいします。