ぐらしあすの「自死について」

ぐらしあすの「仮説」

全ては本人本位である。
最初に、自死については防止するべき事なのか

自死の責任は本人自身にあり違法な事でもない。そしてそれは本人の自由である。それを第三者が防止しようとしたり、非難すべきものだろうか。

理由として考えられる要因

1) 逃亡
長期にわたる治療による将来への不安・恐怖の蓄積。
医師による精神療法はその見解と力量により大きな差があり、ただ共感してくれるだけでは効果、満足感を得られない。また短時間(約10~15分の前提)で当事者が納得できる内容、例えば、医師がイニシアティヴをとる関係が、当事者との間に出来てから(このタイミングには当事者が捉える個人差あり)は、時には当事者の話について、ズキッとしたりハッとするような内容、いわば柔軟でありつつも、鋭い否定や提案も必要であると考える。
また、治癒ではなく寛解とは何かという答えの見いだせない孤独な不安に耐えがたい苦しみが続く。
ある意味、精神科医療では、患者にとって精神療法と服薬の継続の意義を見いだせない状況になりうる。
「死にたい」と訴える人を「生きるんだ」と説得出来る言葉は第三者にはない。
ましてや「自分だけではないぞ」「生きたいのに死なざるを得ない人がいるんだぞ」などという言葉は論外である。
そのような心理状況が続く中、まさに無期懲役者が、己を独房という世界の中に、己自身を軟禁状態にし、出口の見えない絶望的感、また、もはや生きていること自体が、社会という空間で窒息するような逃げ場のないような感覚の状況が続いた時、また、もはや生きる希望について「解なし」という結論に至り極めて八方塞がりで、像が蟻になるほど詰められた状況になった時、自死、すなわち逃亡という形をとるのではないか。まさに「逃」と「亡」である。

2) 悟り(主として気分障害圏の場合)[医療を受けていない人も含む]
死は恐怖であるのか。死んだことがないから不明であるが、自ら人生にピリオドをうつこと(納得自死)の決意は、精神科医療の限界を熟知した時、完全な治癒がないことを熟知した時にスタートするのではないか。
また、これまでの経験から、親しい者の死が、自身に対して強烈な悲しみを生むことを知っているが、その悲しみは一定期間続くものの、時が過ぎればこそ、その死を受け入れ、自身のこころの中にその人が存在し続けることを知っているからではないか。
  
話がそれるが、自爆テロ、偏った宗教などでは、自死することが、自身の属する組織に貢献し、自身にとっても組織或いは神に対して、最も価値ある行為であること、また、反体制自死も対象に対する最大の抗議であり、崇高な行為であるという信念に基づくものであるのではないかと推測する。
極端な話から元に戻す。
自らの命を差し出すことによって、最も大切な人に何らかの最大の利益を与えることも、そのことが自死へのプロセスを計算し、緩やかに加速させる大きな要因の一つではないか。
死へのプロセスの中で着々と準備が出来ているのかもしれない。
ゴールへ向かうことは、苦でも楽でもない、それを通り越した平穏で、ごくごく自然なことでもあるのかもしれない。

3) 薬剤性健忘(全般)[自死とみなされることが多い]
服薬、特に眠剤や、眠剤と一緒にアルコール(この場合、違法ドラッグを除く)を摂取した時、大抵がブラックアウトする。つまり、自身の行動を覚えていないのである。アンコントローラブルな状況となり、飛び降りたり、外出して交通事故にあったりという、一見すると自死と捉えられるような死もありうるのではないか。
また、睡眠時に不意に襲う嘔吐も大変危険である。窒息する。
アルコールを含まず、眠剤を服用する際も注意を要する。
自分では意識はまだ大丈夫だと感じていてもじわじわと効果が現れる。
眠剤を服用したら、すぐに布団・ベッドに入るようにすることは当たり前。
眠剤を飲んで外出すると、アルコールの酩酊或いは泥酔状態のようになり、自分が今何をしているのか、起きているのか眠っているのか全く理解出来ない状態になり得る。
ブラックアウトこそ、薬剤を服用する際に最も注意が必要である。

ディプレッションまっさかり。ぐらしあすの「こころの声」を中心に、自分が体験したことや、時折感じる何のエビデンスもない、主観の記事も徒然に書いていきたいとおもいます。よろしくおねがいします。