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成果だけが欲しい

新しい日記帳を買うとき、わたしは日記を書きたいのではなく、毎日日記を書ける人になりたいだけだ。新しい日記帳があれば、日記を書けると信じている。

自粛が明けたら何をしたいね、と考えることがある。本当は明けることはないと、薄々気づきながら。

2011年3月11日、わたしたちの世界は変わった。あれを単に「地震があった」とだけ言うことはできない。津波もあったとか、そういう意味ではない。生活が丸ごと変わるのを、肌で感じたはずだ。変わってしまうことを実感したはずだ。それが消えることはない。元通りにはならない。

そういうことが、世界には何度も訪れる。新型コロナもその大きな一つだ。思い描く「元の世界」は、もうどこにもない。だから明けることはない。

それでもわたしは、新型コロナが収まったら何をしたいと考えてしまうことがある。それは「こんな世界になったらいいな」と考えているだけの世界が、インスタントに訪れることを望んでいるに過ぎない。ありもしない世界の夢想にすぎない。

わたしは、検察庁法の改正案を批判するムーブメントがなぜ起きていたか考えた。なぜ批判する・なぜハッシュタグを使うという話ではなく、なぜトレンドになったかという話を。あれは、先の見えない世界の中、唯一の悪で、インスタントに征伐できて、すぐに結果が得られるものだからだ、と思った。

批判するのは、絶対的に正義だ。アンパンマンと一緒。批判するのはアンパンチ。効果的だ。もし効かなくても、「効いた」「効かない」という結果がすぐに発生する。つまり、改正案は採択されるかどうかすぐに答えが出る。見送りになってしまったが。

例えば自粛をしてみても、それが本当に結果に繋がっているのか、わたしたちには今、全くわからない。しかも効果が出るまで時間がかかる。そもそも自粛は消極的対処にすぎない。「批判」のような、積極的対処ではない。「頑張っている」感がない。「批判」は明らかに「頑張れる」。だからあんなにトレンドになったのだと思う。

少なくともわたしは、すぐに結果が欲しい。何なら成果だけが欲しい。わたしが1年間書いた日記帳が売っていれば、どんなにお金を積んででも絶対に買う。別に日記を書きたいわけではないのだ。

この欲は通常満たされないから、「批判」のようなイベントが起きるとわたしも「安易に」乗りそうになる。議論も思考もせずに。「新型コロナの対策や補償だけ考えないとは何事」なんて言いたくなる。そんなこと本当にしていたら社会は潰れるのに。

考えるのをやめてはいけない。わたしは、成果だけ欲しがってはいけない。世界が突然「さいきょう」になることはないから、今日も自分で少しだけ変えるしかない。


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