見出し画像

死んだらゴッホの絵を観に行きたい

死んだらゴッホの絵を観に行きたい。死んだらどうなるのかは、死んだことがないので分からない。ただ、何日間かは現世をふわふわと漂っていられるんじゃないかと思っている。その、漂っていられる間に、ひとっ走り観に行きたい。
念じたら瞬間移動みたいに行けるんだろうか。それとも、やっぱり飛行機とかに乗らなきゃ行けないんだろうか。もう科学とかに縛られない存在になったので、できれば念じるだけでその場所に行ければいいなと思う。
ゴッホ美術館に行きたい、と思ったらふわっと美術館の目の前に立っている、みたいな。そうであってほしいし、幽霊はそんな無敵な存在であってほしい。もう死んだのだから。

何年か前に、上野にある美術館でゴッホの「刈り入れ」という作品を見た。ありきたりな言葉しか言えない自分が情けないが、ものすごく綺麗だった。

その場所だけきらきらと光っていた。一瞬で目を奪われ、その場から動けなくなった。その絵が描かれた背景も何も知らないのに、なぜか涙が出そうになった。感情が突然波打って、ぐわんと、吸い込まれそうになる感じ。ずっとその絵の前に立っていたかった。絵を観てそんな感覚を抱いたのは初めてだった。
ゴッホは何を思いながらこの絵を描いたんだろう。その時、その場所では、どんな風が吹いていたんだろう。その風の匂いは、風の冷たさは、暖かさは。ざわざわと風が麦を揺らしていく。麦を揺らした風は、ゴッホの頰を撫でていったか。
想像すればするほど、その絵は私の心を鷲掴みにして離さない。絵の具の凹凸が、実際にゴッホがこの世にいたんだと自覚させる。それが嬉しくてたまらない。ゴッホがこの絵を描いた時間軸の延長線に、私が立っている。喜ばしい。
あの絵を、また観に行きたい。死んだら。
目を瞑って、観たいと念じて、目を開けた瞬間にあの絵の前に立っていたい。幽霊だから、多分誰にも迷惑をかけないだろうし。絵の真ん前に立っていても、生きている人からは見えないから。

不意に思った。こう考える人は、私だけではないんじゃないかと。世界中にごまんといる人の中で、私みたいに「死んだらゴッホの絵を観に行きたい」と考えている人はいるんじゃないか。それなら、もし私がゴッホの絵を観にいった時、すでに幽霊の先客がいるのかもしれない。みんな、ふわふわと絵の前を漂っているかもしれない。場所の取り合いとかにならないだろうか。あ、透けるから大丈夫か。上から見てもいいし、下から見てもいいし、いくらでもまぁ、見る方法はあるか。
そう考えて、もしかしたら美術館の絵の前には死んだ人たちがいっぱい観に来ているのかも、なんて思った。いろんな国の人が、絵を観に来ているのかも。そんな想像をすると少し面白い。

私も、死んだらゴッホの絵を観に行こう。
ふわふわと漂っていられる限り、全部の絵を観に行こう。そう思うと、死ぬのも悪いもんじゃないなと思ったりする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?