氷は溶ける、

その時私は20歳になったばかりで、大学の先輩に連れられて阿佐ヶ谷のとあるバーに来ていた。
お酒を飲んだことはあったが、かしこまったお店に来るのは初めてでなんだか落ち着かなかったし、一緒に来た先輩は後ろのテーブルで常連と盛り上がっていて、居場所をなくした私はカウンターの”すみ”で当時好きだった漫画の最新刊を読んでいた。

推薦で入った大学は、楽しいことなんてひとつもなかった。
まともに名前すら知らない友人たちと過ごす毎日は今と変わらず居心地が悪かった。

「本当は何がしたいの」

急に声をかけられてもはじめは自分に向けられているものだとは思わなかった。
顔を上げると、そこには当然のように笑顔をふりまくバーテンダーがいた。
慌てて自分の手元へ視線を落とす、何を注文していたかも思い出せなかったが目の前にあるグラスの氷はずいぶん溶けてしまっているようだった。

「すみません、わたし、」 こんなところに来るつもりじゃなかったんです。

言いかけて口をつぐんだが、どうやら彼にはバレているようだった。
彼はそっとグラスを取ると新しいカクテルを作ってくれた。
差し出されたグラスは透明で、口をつける直前パチパチと跳ねる炭酸の音が聞こえてきた。

「おいしい・・です。」

そんな私を見て彼はとても嬉しそうだった。


翌日私は謝罪も込めて少し早い時間にお店へ向かった、「気にしなくて良かったのに。」と言っている彼は昨日と同様に嬉しそうな顔をしているように見えた。
その日は、他のお客さんが来るまで自己紹介のようなとりとめのない会話を繰り返した。
彼は私より12歳年上で大学を卒業後すぐにこの仕事につき、ここでは6年働いていて今は雇われ店長をしていた、犬よりは猫が好きで、好きな小説家は川端康成で、美容室には半年に1回しかいかないので伸びきった髪を”くくって”いるのだと笑った、長年付き合っている彼女は二つ年下で大学時代の後輩だとグラスを磨きながら教えてくれた。

20歳を迎えたばかりの私から見ると彼はとても大人で博識に見えた、
実際様々な知識があり、知らないことへの興味もあるようで私に対しても一回り年下の女の子の生活や心情に興味があるように感じた。

大学はどう?「楽しくない」
どうして?「みんなバカだから」
友達や彼氏はいないの?「フルネーム言えない友達ならいる、彼氏はいっぱい」
いっぱいいるんだ「・・いっぱいいるよ、私モテるもん。」

年上の異性に「つまらない」と思われたくなくて吐いた言葉だった。彼はひどく大げさに笑って、私の頭を撫でた。

興味本位も2ヶ月続けば趣味になり当たり前へと変わる。

週に1度しかない定休日に彼は私を色々な場所へ連れて行ってくれた。
動物園や映画館、彼が昔働いていたお店にも私は後ろをついていき、彼の横に座る季節が続いていた。私が何か言わないでも察してくれる彼との距離はとても居心地が良かった。

ある日、開店前の店内でいつものように過ごしていた、カウンターの中で作業をする姿を見ながら、私は最近みた映画の話をなるべく面白くなるように一生懸命伝えていた。
シャッターは半分閉じたままで、電車の音がかすかに聞こえた。
ふいに唇が触れ合うのがわかった時、驚きはしたが違和感はなかった、いつかこうなるであろうことがなんとなくわかっていたからだと思う。そしてこうなってしまえばおしまいが近いことも私はわかっていた。

「ごめんね」

まるで叱られた子供みたいに呟く彼をみて私は黙ることしかできなかった。
もう二度と会うことはないと思ったが、それは会えないわけではないということも知っていた。
この時、持っていた感情に名前をつけるとしたら恋なのかもしれない、ただ彼はそれを笑うだろうし、私自身たとえ追求したとしても欲しかった答えは一つもなかったように思える。
幸福と不幸の中間、共有と依存の隙間で私は彼を必要としていて、彼はそんなことは「当然だ」という風に日々をこなしていてくれたのだった。

結果的に言うと、彼とはそれから今まで会うことはなかった。

ただ先日、インターネット上の小さな記事で彼を見つけた。
今は違う店で働いているようで、形式的なインタビュー記事の中「彼女はずっといない。」書いてある文字を読みながら私は小さく「嘘つき」と呟くのだった。

よろしければサポートお願いいたします₍^.ˬ.^₎ いただきましたサポートは好きな果物の購入にあてさせていただきます!