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(小説)山に眠る鳥たち -8-

「本当に大丈夫なのか」
 パパがテーブル越しに向かい合った私に訊いた。地震が起きてから、パパは仙台支社に来ることが多くなって、私はママに内緒で泉ヶ岳の山小屋カフェにパパを呼び出した。ボサノヴァが流れている。吹き抜けの天井にはシーリングファンが回り、対面カウンターの奥に大きな焙煎機がある。コーヒー豆を煎ったスモーキーな香ばしさが強く店内に充満している。お客さんはカウンターに二人、テーブル席に女性の二人連れ、そして私とパパ。外に向かって開かれた小窓からは室内と同じくらいの暑くも寒くもない空気が流れてくる。
「だけど、マンションには帰りたくない。おばあちゃんちに住んだままでいたい」
 復学するつもりだと、打ち明けた。大学の費用を出してもらいたい。車の免許を取りたい。車も買って欲しい。けれど、生家には戻らないという、自分本位で都合のいい、相談面したワガママを私はパパに持ちかけている。親の心配を逆手に取った悪い娘だ。
 パパは困った顔をした。「ママのことは俺が説得する」と言ってくれる雰囲気ではない。私はパパの顔色を見ながらアイスコーヒーを啜った。グラスは結露で曇っている。
「貴子さんか? だから帰って来たくないのか?」
 私を刺激しないように、パパは穏やかに訊く。
「それも無い訳じゃないけど、これからは『誰かのせい』とかじゃなくて、自分の気持ちを大事にしたいと思ってる。だから自分が安心できる場所からは離れたくない」
「そうか。なぁ晶、その前に一つ確認なんだが、医者は、本当に晶が就きたい仕事なのか? 命とか、体とか、そういったものに晶が興味あるとは、パパはあまり思えないな」
 意外な返事だった。ずっと単身赴任で、ママの言いなり、それがパパだと思ってきた。
「侮るなよ。これでも三十年近く、お前らの顔色窺ってきたんだから」
 私の驚き顔を前に、パパはニヤリとした。
「コーヒーお代わりください」
 パパがカウンターの向こうに声を掛けた。大きな声で迷惑ではないかと思ったけれど、他の客は自分たちのお喋りに夢中で誰も気に留めていない様子だ。焙煎機を操作しているのが店主であるご主人で、コーヒーを淹れて接客しているのが奥様なのだと思う。カウンターから出てきた奥様の顎までのボブヘア―は白髪混じりだがきちんと整えられていて、手で編んだような花の髪飾りがとても素敵だ。「ごゆっくり」とまろやかな声で、父の飲み干したカップと淹れたてのコーヒーが入ったカップを交換して行った。
「医師にこだわるのは、ママの言いなりに、もうなりたくないからだよ」
 カップをソーサーに戻し、口許に力を込めて何かを考えているパパ。25にもなって、思春期の中学生のような発言をする私。アイスコーヒーを再び啜る。氷で薄まって味がしない。                  「こっちに住むってお前が言いだした時、本気で心配したんだぞ」
 カフェを出て、家まで送ってもらう車内でパパは言った。
「荷物も少ししか持ってこないし、食料も金も無くて、どうするつもりなのか、ってな」
 その通りだ。あの時の私は、体調が悪いくせに金も食料も持たずにママから逃げた。
「死ぬかと思った?」
「茶化すな。結構心配したんだから」
「……ごめんなさい」
 家の前に車を着けたパパは、鞄から銀行の封筒を取り出して私に手渡した。
「ママには内緒だぞ」
 いつものセリフ。『いつも』が付くぐらいここに来てから時間が経った。
「うん……ありがとう」
 パパは私の復学を承諾し、金銭援助を約束してくれた。パパに甘えて大金を引き出すなんて、すごくズルいことをしているんだと思う。お金が無くて泣く泣く大学を去る人もいるというのに。お金がどんなに有難いものか、ここに住んでみて痛感した。今の私には一万円だって易々とは手に入れられない。自分の限界を思い知った。家族にワガママを言えること、お金を出してもらえることは、恵まれているということだ。医学部だって、生活の心配をしていたら合格できていなかったと思う。家族のバックアップ無しでは絶対に不可能だった。今の自分があることを深く深く考えてみる。納得できる生き方を探してみる。お金をもらって罪悪感を持ってしまうのが嫌なら、これからの生き方で、このお金が無駄ではなかった結果を作り出すしかないのだ。目の前にいる、こんなに手のかかる娘を守ってくれるパパを裏切らないために、私は頑張るんだ。
「じゃぁな」
 遠ざかるエンジン音が、二年前に泉ヶ岳に来た時を思い出させて、私は切なくなった。

 真紀ちゃんが眉の間に少し皺を寄せ、頬を強張らせ口を小さく動かす。
「え…… そうなんだ?」
 来月から復学するつもりだと話したら、真紀ちゃんの表情はみるみる硬くなった。私の決断を喜んでくれると思っていたのに、予想外の展開で私の心に緊張が走る。
「俊君の熱、下がってきたみたいよ」
 真紀ちゃんは私の話を深追いしなかった。さらりとかわす感じだ。
「アキちゃん、俊君に水持ってってくれる? 私、もうすぐ小学生の生徒さんが来る時間だから」
 冷たい態度のまま真紀ちゃんは台所から出て行った。
「アキちゃん」
 呼ばれて振り向くと真紀ちゃんと交代で俊君が立っていた。
「真紀ちゃんどうかした? 怒ってたみたいだけど」
「あ、うん。ちょっと。はい、お水。起きて大丈夫?」
 ミネラルウォーターをボトルから注いで俊君に渡した。
「ありがと。色々迷惑かけてごめん」
俊君はダイニングテーブルに腰かけて一気に飲み干した。
「もう、だいぶ良いの?」
「すっかり」
 食欲がなかったせいか、俊君の顔の輪郭がくっきりしたように見える。
「私、大学に戻ろうと思って。それを真紀ちゃんに言ったら急に不機嫌になって」
「真紀ちゃんが怒ってたのは、アキちゃんのせいだけじゃないよ。俺もさっき尋問された。何でみちるさんなんだ!って」
 空になった俊君のコップにもう一度水を注ぐ。
「でも、それ、私も訊きたい」
「……恥ずかしいな」
 俊君はおでこを掻いた。
「こんにちはー」
真紀ちゃんのピアノの部屋で、かわいい声がした。真紀ちゃんが始めたピアノ教室の生徒さんだ。少しの間、話し声が聞こえて、続いてバイエルを弾くピアノの音。何番かは私には分からないけれど。
「アキちゃんは何で復学決めたの?」
「言ってみれば、インフラ強化? みたいな」
「インフラ?」
「ママの支配から逃れるには、力をつけないと」
 俊君は、私とママの関係を察して、苦笑いした。
「医学部に戻るの、精神的にどう? 辛くない?」
「正直、自分が医師に向いているのか、やりたいことなのかは分からない。ママが敷いたレールに戻る事だから、抵抗がないって言ったら嘘だしね。でも、不純な動機だけど、医師になったら、ママにはもう文句言わせないって、強くなれる気がするんだ」
「女の人って強いね。みんな」
「みちるさんも?」
「だね。人は多面体なんだってさ。絵理奈を忘れない面、震災を忘れたい面、忘れたくない面、学校の先生の面とかね。で、どっかに自分を愛してくれる面があれば嬉しいって」
「みちるさん、すごいこと言うね」
「だよね。それで俺、何か肩の荷降りたっていうか。後ろめたくなくなったっていうか。でもさ、」
 俊君がまた暗い顔になる。
「……絵理奈が寒くて暗いとこで彷徨って、家に戻りたがってるんじゃないかと思うんだ。絵理奈をちゃんと送らないと、俺だけ幸せになんかなれない。どうしたら絵理奈が救われるか、考えても、考えても、分からないんだ」
 リセット―― 俊君の人生の一場面には強制的にリセットが掛けられたのだと思う。一からまた作り直しだ。しかも深く傷ついた現実を背負って。俊君がみちるさんと一緒に居る事で生き直せるとしたら、誰がそれを批判できるというのか。
 絵理奈さんを救う方法なんて、どう考えても無い。けれど、私が絵を描くことにすがったように、真紀ちゃんがコンクールにこだわり続けたように、俊君も絵理奈さんを追い続けてしまったら、自由に飛び立つことができなくなる。否応なしに区切りをつけなければならないタイミングは、必ずくる。生きる足を止めることはできないのだから。
「こんなこと言ったら、俊君、怒るかもだけど……」
 もっと落ち込ませるかも知れないが、私は事実だと思うから、言う。
 俊君は私を見た。
「それは、絵理奈さんが決める事なんじゃないかな」
 俊君の目が鋭くなった。口を一文字に結んでいる。
「私、俊君の傍にいたから、どれだけ俊君が苦しんだか分かってるつもり。だから軽く言ってる訳じゃないよ」
 俊君のだんまりが怖い。怖いけど、言う。
「この世だろうが、あの世だろうが、最後の最後は自分で決めるしかないと思う。……ごめん、説教くさいね」
 気合いを入れた割に、うまく話せなくて尻つぼみした。こんな話、俊君は色んな人から散々聞かされてきただろうに。
「絵理奈に自分で乗り越えろって、いうこと?」
 尖った目が緩まない。
「簡単に言えば……うん」
 一音ずつ音階を確認するピアノが私と俊君の間に入り込む。俊君は自分でコップに水を注ぐ。ゆっくり、少し飲んでは口から離し、を何度か繰り返して、尖った目はだんだんと焦点がぼやけた虚ろな表情を呈してくる。
「その答え、とっくに辿り着いてたけど、自分がすごく冷たい人間に思えて、認めたくなかった。でも……そっか。やっぱり。その答えは正解だったんだ」
 また傷つける。また泣かせる。俊君の顔から目を逸らす。もう泣かせたくも傷つけたくもない。堪らず立ちあがると、床と木製のダイニングチェアーは擦れてグヮンと大きな音を立てた。俊君に背を向けて、喉は乾いていないのに、水を飲むコップを取り出して場を繕う。ピアノの音は止んでいる。
「ごめんね、余計なこと言って」
 ごめんね、って薄っぺらい。こんな四文字で事が改善されるわけない。
「謝らないで。謝られたり、慰められたりは、もう、いいから」
「うん……」
「絵理奈から気持ちを離すつもりは無いけど、『頑張れ』って絵理奈に言えるようにするよ」
「これ以上、頑張んなくても」
「頑張れ、って頑張ってる人に言っちゃいけないっていうけど、俺は好きなんだよね、頑張れ、が。ちゃんとあなたを見てますよ、って感じがして。だから、アキちゃんも頑張れ」
 俊君の「頑張れ」が耳に優しく伝わる。こんなのは経験がない。私の知る「頑張れ」は、私を追い詰めて、走らせて、苦しめるだけのものだった。俊君の頑張れ、は両手で丁寧に背中を押してくれる。
「ありがと」
「さようならー」
 ピアノの蓋を閉める音がして、かわいい足音は遠ざかっていく。

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