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幸せになってしまったら、アイデンティティが無くなる気がする

どーも。三大欲求よりも芸術大好き、あめんぼうずです。

さて偉そうなタイトルにしましたが、高尚な話ではなく贅沢な悩みの話です。理解してもらえる類の物なのだろうか…

申し遅れましたが、私は人間です。なので当然、日々自分が幸せでいるための生き方をしております。そして、ついにそれが実を結びはじめています。
日々に感謝を持ち、対峙したものを味わい、自己哲学を醸成し、偶発的なイベントを見つけて楽しむ。毎日を幸せに生きるということが現実にありえるということを体現できてきました。もちろん、悩みが無いなんてことはありませんよ。それでも楽しめるから良いか、みたいなスタンスです。

ただ、生涯大切に抱えてきた自らの繊細さ・仄暗さのような部分までが「幸せ・楽しい」の光に充てられて褪せてしまっているのではないか、というのを考えてしまったのです。私は自らを不幸で、繊細で、暗くて、生きづらくて、情けなくて、弱弱しくて、自己批判に依存している人間と認識し、それを屁理屈こねてなんとか前向きに転用して日々を生きているのです。その精神は、芸術に神秘や愛を見出す根源でもあります。私は芸術が大好きで、かつ自己を「芸術好きな自分自身」と捉えなおすことで自己肯定を可能としています。そして「芸術好きな自分自身」を支える己の繊細さを誇りとしていたのです。

その誇りが近頃は存在感を薄めつつあり、危機を感じています。楽しさを感じるようになったから、大人になってしまったから、社会に飲まれてしまったから、そんな理由でありましょう。問題なのは、「幸福を求める」というあまりに真っ当な目標が、自分の誇りと相容れないシロモノなのかもしれないことです。
間違いなく私は幸せになりたいです。ただ、幸せとは「悩みを誤魔化すこと」では無い気がするし、私は悩みを失いたくないとも思うのです。
悩みは不安を生み出しがちですが、それさえ制御できれば素晴らしき発想の種です。私の好きな歌詞には”迷い無き拳に、重さなど宿らない/重さ無き拳に、命など宿らない”とあります。私が欲しいのは天使の羽ではなく、命と誇りの重さということでしょう。
不安に溺れる人生は間違いなくただただ辛く悲しいものです。だから不安を減らし、楽しみを増やす努力をしました。でも、悩みを無視するのは私のアイデンティティへの栄養供給を断つということでもあるらしいのです。

私は悩みを拾って抱えていたい。それでかつ不安はあまり持ちたくない。ああ、なんて私は阿呆なのか。
数日前にセルフイメージの大切さを認識した矢先のことですし、今一度「自分の求めるもの」について再定義することとしましょう。恐らく、しばらくは「幸せ」という言葉を禁句にしたほうが良い。この言葉はあまりに社会的なつまらなさを含みすぎている。この単語は僕の内的辞書には無くて、社会的辞書にだけ掲載されているようだ。少なくともこのnoteは私自身の言葉で綴らねば。

私は私の哲学、真実の探求、芸術を愛する。その邪魔をするならば、「××」なんていらない。誇りを見失わないために。

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